伊能忠敬e史料館
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10.社寺、団体、個人
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日本写真印刷
 
阿部正道氏
 
太鼓谷稲成神社(津和野)
     渡辺一郎   季刊 伊能忠敬研究 第8号より
 中国山地の小京都、津和野に伊能図がある。津和野にどうして伊能図があるのか分からなかった。行って見ればわかると思い、神社の篠戸さんにお願いして見せていただいた。1995年10月24日、夜遅く津和野に着いて、駅からビジネスホテルに電話したら、満室という。仕方がないので民宿案内所に頼んで民宿をとる。食事はないというので、外に出て一杯やってから、ラーメン屋に入り続きをやっていると、隣の二人組は観光業者らしい。海外旅行の楽屋をしきりに話している。
 一人帰ったので話しかける。太鼓谷稲成にある伊能図を見に来たこと、折角きたのにただ一つしかないビジネスホテルにあぶれたこと、交通が不便でどうにもならないこと、などを話していたら、その方は私があぶれたホテルの社長さんだった。びっくりして、何でホテルの社長がラーメン屋で飲んでいるのか聞いてみた。元々は建設業の事務系統の方だった。会社が地もとの人の依頼でホテルを建てたが代金を貰えないので、経営権を取得し子会社とした。大阪の本社から送り込まれて、単身赴任で社長をやっているとのこと。バブル崩壊がこんな静かな山の中にも及んでいるという話だった。伊能図を求めて歩いていると色々なことに出会うが、忠敬も測量しながら、面白い出会いがあったと思う。
 翌朝、高い石段を上がって神社に伺うと、宮司さんのご子息で、権宮司の角河さんが出てきて、伊能図を見せていただく。昨夜、ここの宮司さんのことも聞いたが、大変経営が上手で、一代の間に神社を大きくされたとのこと。もう一人の神職の方と地下の宝物倉庫から地図を持ち出して三百畳敷きの大広間に運ぶ。
 日本全体を描いている日本地理測量之図は五米四方くらいの大形図だ。二人で両端を持って慎重に広げてゆく。この図は尾張までの、日本の東半分を描いた東三十三国沿海地図の小図とセットで保存されていることが多いがここもそうである。2m四方くらいの沿海地図も広げる。これら2枚の伊能図は堀田仁助の写しである。
 広げ終わった頃、宮司さんが現れて、堀田仁助は伊能忠敬の先生という話があるが、といわれる。これには驚いたが、「先生ではなく、先輩というべきだ」とお話したら納得された。
 津和野藩士堀田仁助は暦数に明るく、寛政五年から暦局に出仕しており、忠敬の寛政十二年蝦夷地測量の前年に、船で蝦夷地測量を試みたから、間違いなく先輩である。ただ、船で移動したため、忠敬のような地図は出来なかった。
 忠敬も初めて蝦夷地へ出かけるとき、船でゆくように云われたが、船でゆくと緯度一分の計測ができないので、色々理屈をつけて陸地を選んでいる。その際、堀田仁助の作成した地図もみせられ、これとどう違うのかと問われている。忠敬は、多分先輩を批判せず、上手に申し聞きしたと思う。
 仁助は、高橋至時以前から暦局にいるから、高橋・伊能とはグループが違うように考えられる。測量日記に一ヶ所あるほかは名前は出て来ない。しかし、同じ暦局にいたのであるから、伊能測量の経過は良く見ていた筈である。神社のお話では、文政十年に帰藩の際、藩主亀井候に土産としてこの二枚の伊能図を持参し、第二次大戦後、太鼓谷稲成神社に寄付されたのこと。
 文政十年は、シーボルト事件前年である。暦局は混乱していない。堀田仁助は暦局の原本から写した公算が大きい。藩公への土産である。丁寧に写されている。
それにしても、仁助は藩をあとに暦局に三十年もの長い間いたこと・・・全文はPDFをクリック
 
須賀田宗司氏
籠瀬良明氏
 
那谷寺
 
諏訪神社(佐原)
 
古橋懐古館
 愛知県豊田から足助を通って飯田に抜ける街道の一番奥の稲武町に古橋懐古館がある。ここに正真正銘の東半部沿海地図小図副本の断片が蔵されているから不思議である。伊能図はどこから現れてもおかしくはなさそうである。 <SPAN onclick="img_hensyu(’12’,’134’,’24’,’img’)"> </SPAN>
 
稲武の伊能図は沿海地図小図を親不知、浜松を結ぶ線で切断した西側である。地図面は55.6cm×230cm.凡例も書かれている。針穴はしっかりあって地図合印も揃っている。立派な小図副本の断片である。
 幕末の古橋家は酒造を業とし庄屋でもあった。交通の要衝だったので、色々な人士が往来した。第六代の当主は国学を志し平田篤胤に入門するとともに、諸名士の墨跡を収集した。伊能図断片も通行した旅人から購入したのではないかというが、来歴は定かでない 
 
・藤岡健夫氏
      渡辺 一郎  季刊 伊能忠敬研究 第11号 (1997春季号)より
 本図は、数少ない九州地区の大図で、縦81cm x 横177cm、軸装されている。保存良好で、退色はない。補修した虫食い跡はあり、その後の虫食いも多少ある。描図範囲は人吉の外れから西米良迄で、種子島・屋久島測量終了後、坂部隊が、文化九年六月五日人吉城下泊、六日免田村、七日湯前村、八日津留谷村(西米良町)に宿泊して測量した部分を描いている。最終版大図の区分とは合わないから、九州測量直後の大図と考えるべきであろう。このルートは第二次測量でしか通っていないので、九州第二次測量の大図である。
 朱の測線に沿って、村名、領主名、沿道風景を描いており、大図の様式を備えている。違いを云えば、隣接図との接合記号のコンパスローズが描かれていない。余白に雲形を描くが、これは他の大図にはない。また、図の中央に末記入のコンパスローズのための余白がある。南が上になっている。村名、領主名が朱書きである。などがあげられる。朱書きの地名は、ほかにも例があるが、試行されたようである。
 針穴は鮮明であり、伊能測量隊によって作成されたことは確実とおもわれる。描図方式の若干の違いから、正式な提出図の構成ではなく、別途に制作された大図と考えられる。もっとも、九州第二次測量だけの大、中、小図が作られたかどうかは分からない。(大谷売吉氏も触れていない)なぜなら、もう中間製品をつくる必要はなかったからである。
 本図の位置づけとしては、最終版の図割り以前に、これまでと同じ方式で描かれた作品のような気がする。
 描図の詳細を眺めると、彩色は濃く鮮明で、近い伊能図を探せといわれれば、東京国立博物館の中図が一番近い。描図は丁寧で、沿道描写は細かく、文字は達筆である。全くの憶測であるが、九州第二次測量の大図は、最終版にとりかかるので、つくらないことになったあと、記念のため、あるいは諸侯その他への贈呈用に、特定の場所だけ数枚制作した可能性がないだろうか。そうであれば、特別版なのだから、他の大図と様式が少し違う理由はすべて説明がつく。
 最終版大図の副本といえるものは、平戸の松浦史料博物館所蔵の平戸、壱岐、五島、佐世保・長崎の四軸と山口県文書館毛利又庫の七枚しか明らかでない。ほかに、写本が国立歴史民俗博物館に三枚あることが知られているのみである。本図は貴重な存在である。
 ついでながら、沿海地図大図は69枚伊能忠敬記念館に揃っている。これはこれで素晴らしいものであるが、彩色、描画法などが、最終版大図と較べると違っている。

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