伊能忠敬e史料館
         “伊能忠敬”に関してあらゆることがわかる百科事典(Inoh_Tadataka-Encyclopedia)です。
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測量を支えた各地の記録(共通)
・浜田藩士の活躍
・山口県徳山 毛利藩古文書
・毛利藩伊能測量文書より
・越後国岩船郡内沿海測量の状況
・伊能忠敬の測地業務の補翼「坂部惟道」
・播州赤穂城下における伊能測量への対応記録
・愛媛県岩城島伊能測量
・浦島測量の図現地調査結果
・松神子村文書
・因幡国石井家で忠敬天文を語る
・兵庫県栢原八幡神社における問答
・間宮林蔵と忠敬の関わり
・南三陸沿岸での伊能隊の足跡
・第四次測量における加賀藩測量の実態
・愛媛県温泉郡中島町の町史資料より
・忠敬先生と筑前こぼれ話
・東蝦夷地の会所
東日本地域の記録
・駿河国須走村米山家日記
・蝦夷地での伊能忠敬の先触等
・越後国岩船郡内沿海測量について
・忠敬先生おおいに語る−前川家の接遇記録

畿内・中国地域の記録
・福山藩 測量御用記
 
・伊能忠敬と橋津
・伊能忠敬と鳥取・智頭街道
氷上郡の農民が拠出した金
・三重を通った伊能忠敬測量隊

四国地域の記録
北九州地域の記録
・島原領測量と島原藩の地図作成
・伊能忠敬長崎県測量地域史料
・伊能測量隊に付き廻った村役人の記録
・公儀天文方筑前御領内測量ノ節萬覚書

南九州地域の記録


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●浜田藩士の活躍
          渡辺一郎   山陰中央新聞に執筆した記事に加筆したもの
 伊能測量は、初め伊能忠敬個人のボランテイア事業であったが、実績を認められて西国測量では幕府の測量隊となっていた。老中の命令書を携帯し、諸藩と沿道の村々には老中から支援命令が出ていた
 
 その伊能測量隊が浜田藩領(現在の島根県浜田)を訪れたのは三回である。浜田藩領の最初の測量は、文化3年6月の畿内、中国沿岸測量の際(第五次測量)であった。その際の付添いと提出用の村絵図作成に、藩の測量師・土井格助は必死の努力で対応した。

 きちんとした村絵図がなかったらしく、浜田藩は伊能隊の来訪が決まると、急遽、土井に制作を命じた。土井は翌日、浜田から益田まで40キロを一日で歩いて概況を把握し、折から洪水で地面が水没していた高須川畔の中島村を手始めに、雨中に測量をはじめる。続きはタイトルをクリック

伊能測量隊の浜田近辺の測線(伊能大図より)
↓   (北は下方で、海は日本海)
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●山口県徳山(現周南市)毛利藩古文書
  伊能測量隊来る!
 
 第五次測量を迎えた毛利家の支藩・徳山藩の応対の模様が『測量方御用意記』(三冊、約八○○頁、山口県文書館蔵)に詳細に記されている。伊能測量について本藩経由で通達をうけると、三万石の徳山藩は江戸の藩邸で情報収集をさせるとともに、瀬戸内諸藩の接遇状況の調査を始め、毛利本藩の意向も伺った。
 
  最初に入手した情報は、忠敬の身分と扱いだった。松江藩の江戸留守居役が幕府筋へ問い合わせた情報では、忠敬は作事方被官(作事奉行の下役)くらいの扱い、高橋善助は天文方・高橋作左衛門の弟だが無格。宿舎、賄いは、領主が手配するに及ばない。

 お定めの木銭、米代を払って御用で通行する場合と同じでよい、と聞かされる。もっとも、他から幕府に聞いたところでは、忠敬はお目見え以下で、御徒士目付より格下。善助は格式がなく、忠敬より下。下役は同心から天文方に出役しているから、御小人目付の扱いでよい、と聞かされる。
続きはPDF及びタイトルをクリック
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●毛利藩伊能測量文書より
(全文はタイトルクリック)

長州藩毛利家の藩政文書を調査して発見した文書である。
  

古文書の画像
 

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●越後国岩船郡内沿海測量の状況(測量日記解読)
           伊能忠敬「測量日記五」 ( 享和二壬成歳沿海日記 )
                                                        伊能忠敬記念館蔵
 
  「測量日記」は忠敬が55才から71才までの16年間、日本全国を測量した折の日記で全28冊。第1冊から26冊までが忠敬の自筆である。残り2冊は文化12年から同13年の、伊豆七島から江戸までの測量日記で、忠敬は同行せず、門人の記録である。岩船郡内での測量は第五巻に記載されている。

 同16日 ( 新暦10 月12日以同じ筆者注 )朝小雨、六ツ半前温海出立、昨日残番坪与はしむ、釜屋坂家十五軒、温海村之口釜屋、温海と釜屋之間小川あり、上には橋を渡、海際にはなし、海辺奇石おほし、大岩川村庄内頒家四十三軒、小川あり、村中に橋有、橋渡テ大岩川村同頒家五十一軒、両村大岩川村と云、小岩川村同頒家七十三軒、早田村同頒家七十五軒、山下ニ住ス、

此辺海中ニ岩嶋あり、鼠ケ関村庄内の番所あり、興屋共家八十三軒、川を越て同村之内興屋ニ一印休、宿佐藤長右エ門、温海本二里半と云、此所雨頻ニ降、夫本原海村、鼠ケ関枝郷家四十八軒、是迄出羽園田川郡ニ而庄内頒なり是広越後国岩船ニなる、中浜村米沢頒御料所家廿七軒、岩崎村同断、二十四軒、中浜本是迄海中海岩奇岩おほし、温海広二十五丁、大岩川三十 O 丁、小岩川二十一丁、早田一里、中浜広一里三十一丁、岩崎府屋町碁石、合四里三十五丁大川村又府屋町と云、御料所米沢預、家数九十八軒なり、温海本四里半、鼠ケ関より二里と云此村海へ二三丁、山間ニ而団地横四五丁長十丁斗、八ツ頃着、止宿文左エ門家作よし
 
同十七日 ( 一 O 月二二日 ) 朝広晴天、逗留朝飯後、米沢郡方下役塩野町詰 ( 代官所 ) 米沢預御料所掛栗原清右衛門見廻ニ来ル、是ぷ海辺通行難所之相談ニ及、此後日々御料所之内休泊、井荷物等之指図をなす、此辺海中ニ小嶋あり、粟嶋と云、長三里、横乗越一里のよし、則粟嶋村ニ而前後二ケ村、家数寺二ケ寺、社家一軒、合百十軒斗り、御料所米沢預之内なりと云、此夜晴天測、此先村々役人見回ニ来る

 十六日は富樫文太郎家に泊、生憎の雨で天測できず、お泊りとなる。国境のために慎重を期されたものか。一泊のうえ晴天となり二十星を測り首尾を果した。乗越しは峰を越えての意
続きはPDFクリック
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●伊能忠敬の測地業務を補翼した「坂部惟道」
 
 坂部惟道は通称を貞兵衛という。幕府の御先手同心であった。この役職は本来は将軍を護衛する侍で、御家人がこれに当る。数学を古川謙に学んだ貞兵衛は暦局に出役して高橋景保の手附下役となった。景保は幕府天文方の高橋至時の長男で名は作左衛門。貞兵衛は九州第二次測量では手附手伝に進んだ。

  伊能忠敬が文化二年 ( 1805)西国地方の測量を命じられると、貞兵衛は手付下役を命じられ、以来、貞兵衛は一貫して忠敬の測地業務を補佐することとなった。

 資性は謹直温雅で、経験を積むに従って技能も進み、忠敬の片腕となって測量班に不可欠の人物となり、忠敬の信頼篤く、測量隊の副隊長として活躍した。忠敬の行くところ畿内から南海・山陽・山陰・九州および南島一帯まで、つねに同行し、いわゆる「伊能図」の完成はこの人なくしては考えられない貴重な存在であった。
 
 しかしながら、文化十年 ( 1822 ) 、五島列島の日ノ島で業務に従ううち、病魔に侵される。忠敬は直ちに書状を送り、大事をとって本島の福江島の福江陣屋に移って治療するように指示した。

 貞兵衛もそれに従ったが、病は重くなる一方で、ついに七月十五日、福江の客舎で世を去ってしまった。享年四十三歳であった。このことを報じた忠敬の書簡に「傷寒症体にて舌も黄に黒を兼ね候上に潟痢もこれあたあり」とあり続きはPDFクリック
 

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●播州赤穂城下における伊能測量への対応記録
 
 第1次から第4次までの測量の結果は、
日本東半分沿海地図としてとりまとめ、文化元年に幕府に上呈し、将軍徳川家斉の上覧を受けた。

 その結果、地図の出来栄えが認められ、忠敬に対し、矢継ぎばやの命令が出された。「小普請組に登用し十人扶持を給する。天文方手付を命じる。約3年をかけて西国一円を測量せよ。測量隊には天文方の下役を配属する」等々。

 そこで忠敬は測量隊を編成し、翌年の文化2(1805)年2月25日、第五次測量に出発した。従った人数は、高橋景保の弟・善助と天文方下役の同心2人を含め17人だった。第五次測量に於ける赤穂の対応状況が村方の記録として残っているので掲載します。原文書は赤穂教育委員会蒐集、解読は伊能忠敬研究会員の伊藤栄子氏である。(古文書はタイトルクリック)


 

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●愛媛県岩城島伊能測量                                    伊藤栄子
 
  愛媛県岩城島に伝存する文書を、伊能忠敬研究会会員の菅 哲彦氏から送って頂いた。
これらは菅氏が自ら島へ出向いて、写しをとって来られたものである。伊能測量に関する文書はこの外にもあるが、既に村誌にも掲載されていて、この島での測量の一端をうかがい知ることができる。過日赤穂坂越浦の測量記録を読んで間もない私には、この未掲載の文書にも興味があった。
  
 先ず岩城村誌に目を通してみると、文化2年丑2月24日の老中触、これは第五次測量出立に先立つて街道筋の宿村々へ出された老中よりの触書である。次に掲げられたのが、伏見から行先を変更したため出された先触である。発信元は測量隊の主な面々となっている。
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  村井小左衞門より参ル書付(下弓削村大庄屋からの廻状)

                     御証文
  一、人足七人
  一、馬六疋
  一、長持壱棹持人足
  
  右は我々国々海辺為測量御用、来ル晦日内弟子とも上下拾五人伏見出立、下辺表より 測量相初メ神崎川通り尼ケ崎江向、夫より摂州、播州、備前、備中、備後、安芸国廣島 迄右国々并瀬戸内島々迄不残相測候間、御証文之通り人馬無滞継立可被申候 

 尤 瀬戸内之島々江は渡り勝手宜所より案内致シ、船用意可有之候、且ツ讃州、予州抔之島々ニ而も中国筋島続ニ而測量都合宜所共此度相測候間、其最寄より讃州、予州へ之島々へ兼而申通し置、渡船其外止宿差支無之様通行筋山川とも測量 致し候間、村々案内可有之候
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<解説>  
 伊能隊は琵琶湖周辺の測量を終えた頃、寒気に向って北国道から山陰へ進まず、伏見 より南下して山陽道を通ることになった変更の触書である。これによって通路に当たる村々、宿次の当事者は少からず慌てたことであろう。初めの予定では一年位先に測量隊を迎える筈であった。
  変更の触書の写しは、岡山御本陣の田原屋与右衞門から備後尾道迄、村継によって廻された。廻状は多くの場合受信刻を記録し、10ケ村またはそれ以上の単位で回送され、必ず発信元へ返された。上記触書の場合は触を出した測量隊が移動を続けているため、「我等着之節可被相返候」つまり自分達がその土地へ行った時に返せばよいといっている。
 山陽道の場合測量の範囲は沿岸の島々も含まれるから、結構時間もかかった。この廻状が今治領、下弓削村大庄屋の村井小左衞門から岩城村庄屋白石友右衞門へ届いたのは十一月十四日であった。
  早速翌日、大庄屋の菅周三郎へ知らせている。 しかし廻状が島々を回っているうちに、山陽道をまっすぐ進んだ触次の方が早かったら しく、大庄屋から折返し通知があった。続きはPDFクリック)(関連文書はタイトルクリック
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●浦島測量の図現地調査結果
 
  大規模なj地元の支援部隊を従えて、実際に測量に従事した伊能測量隊の作業風景を彷彿とさせる絵図はほとんど残っていない。
 
  わずかに、宮尾昌弘氏所蔵で、呉市 ( 広島県 ) の入船山記念館に保管されている「浦島測量之図」と、呉市教育委員会所蔵の「御手洗測量之図」が残っている程度である。
 
 これらはいずれも芸州藩領の測量風景を描いたものであるが、芸州領の測量は測量日記によれば文化3年2月4日から始まっている。現地の井垣武久氏(教育委員会勤務)の調査によれば、浦島測量の図は、呉市の広付近から、音戸の瀬戸あたりまでをデフォルメして描かれたものという。
 
 クルーザを出してもらい、海側から観察したが、現地の地形とほぼ合致しており、井垣氏の推測のように、測量隊と同行していた絵師または絵心のある付きまわり役人が描いたものと考えられる。            ( 渡辺一郎 )


 

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●松神子村文書
 
 第六次測量を迎えた四国の村々の応対の模様を詐しく記録した史料として、「公儀天文方御役人廻浦に付御仕成方調べ」という村方文書が残っている。この文書は測量隊の取扱について村々に知らせた廻状で、複数の地区に同じような記録が残されている。しかも一通ではなく、状況が判明するにつれて何回も追加や変更がなされている。
 
 ここに掲載する文書は、松神子村庄屋・和忠次という人物がまとめたもので、新居浜市松神子の小野家文書のなかに含まれている。和忠次は、伊予西条藩領における伊能隊受け入れの惣肝煎り ( 総指揮者 ) として、支援作業全般を統括した。解読は伊能忠敬研究会会員の伊藤栄子さんである。 続きはPDFクリック




1.測量御用ニ付組内村々丁数改絵図拵共人足諸入用帳
             文化五年  辰四月    サワズ 沢津組
2.人足手配大意    氷見組
3.役過銭天文方日用渡帳  文化五年 辰十二月  松神子村
3.文化五年辰夏
3.天文方御通行人足賃銭米渡
4.御伺之頭書 氷見組写
5.五ケ村心得
6.町在宿其外心得   松神子村庄屋 和忠次
6.禎瑞之儀ニ付心得  海辺之儀ニ付大町組、氷見組心得
7.川々手当
     兎野山村 四郎右衞門
      中野村  利兵衞
8の1 御領分持送り品書抜帳
8の2 新規出来之内御領分中持送り之品書抜帳
                    利兵衞写之
9.測量御用之節諸入用 アンジュウ 安知生村
10. 天文方御役人御入込之節
    先達而申通候御仕成帳之内、相替り候ケ条并相増ケ条共
                          氷見組
10の1  渡船御手当
11. 御休泊并町数
12. 町在御宿其外心得
14. 川々手当    松神子村庄屋 和忠次
14の1.公儀天文方御役人廻浦ニ付御仕成方調  氷見組                                   中野村
15. 禎瑞之儀ニ付心得  兎野山村
16. 公儀天文方御役人衆御廻浦御用留  
    松神子村庄屋
    文化五年辰閏六月     和忠次
17. 公儀天文方御役人様御通行ニ付諸事留帳     松神子村庄屋  和忠次
18の1 天文方御通行ニ付組々江諸通留
    文化五年辰八月  御領分中総肝煎方
18の2 天文方御通行ニ付組々江諸通留
19. 道橋積野取帳  文化五年辰八月
                        六郎二
                松神子村庄屋  和忠次
20.  御宿割帳
21.  賞詞
22.  測量方役人の休泊宿支払覚
23.  天文方御用御荷物受取覚
24.  俳諧行脚
25.  伊能勘解由様御荷物・測量道具覚
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●因幡国石井家で忠敬天文を語る
 史料『石井記録』紹介 
伊能忠敬が因幡国の宿泊宅で出自や測量方法を語る         佐 久 間 達 夫

 二十年程前、鳥取県倉吉市にお住いの福嶋様と、伊能忠敬記念館で初めてお会いし、それ以後今日まで、福嶋様から四季折々のお手紙をいただいて参りました。
 
 
今回、福嶋様が所属している日本山岳会の知人から「私の親戚で、伊能忠敬が第五次測量・第八次測量で山陰の地に来られたときの宗旨庄屋であった石井世左衛門家で所蔵している『石井記録』をファックスで送付するのでご覧下さい」という連絡がその知人から福嶋様にあり、その解読文が福嶋様に送られてきました。
 
 
そして福島様から私佐久間宛にその『石井記録』のコピーが届きました。早速一読してみたら、今まで測量先で発見された「測量覚」などとは異なり、忠敬が出自や測量方法などを宿泊宅の主人に話され、それが詳細に記録されていたので、原本所蔵者の了解を得て、伊能忠敬研究会誌に掲載させていただくことにしました。

具体的記録はタイトルをクリック

 石井記録はいうなれば忠敬の車中談のようなもので、結構大風呂敷を広げており面白い。このように本音の出た記録は珍しい。 朝日新聞の記事もご参照ください。 渡辺注
 


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●兵庫県栢原八幡神社における問答

 幕府事業となってからの測量では、忠敬は諸国一宮など著名社寺にはよく参っている。門前まで測量線を伸ばして打ち止めし、社寺側の案内を受けるのである。そのとき、社寺側とどのようなやりとりがされたか、を記録した数少ない文書である。文書内に出てくる建設中だった塔は、伊能大図には記載されていない。原文書は神社所蔵。解読は伊藤栄子氏である。 渡辺

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●対馬における伊能測量の全貌
 
 
伊能隊は第八次測量であった文化10年(1813)3月28日に対馬の厳原に着いて、5月21日に離れるまで、53日間かけて全島の沿岸と主要道約224里を測量した。一日4.2里である。足場が悪い所での測量速度としてはかなり速い。

 対馬藩は伊能図と対比されることが多い精密な元禄国絵図(対馬)を持っていた。手間暇かけて制作したもので、相当な自信を持っていた。付き添いを命じられた藩士・中村郷左衛門は、壱岐の勝本浦まで対馬国絵図を持参して「こういう素晴らしい図がすでにできている。測量を取りやめることはできないか?
と交渉をしている。
 
  幕府の命令により測量している忠敬に、こういう言い方をしたのは、対馬藩だけではないか。朝鮮と幕府の間に立って両者の面子を立てるため、永年努力してきた対馬藩らしい思い切った申し出である。

  もちろん、測量を一切しないで、などということではなく、国絵図を活用して作業を極力簡略化し、建前はしっかり整えるということだったろう。そういう交渉を持ちかけるところが対馬藩らしい。
以下、PDFクリック


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●間宮林蔵と忠敬の関わり
 
 ここでは世田谷伊能家文書から「忠敬と間宮林蔵」の関わりを紹介します。執筆は安藤由紀子さんです。
 ゴロウニン事件
 忠敬と林蔵が西と北に分かれた文化八年、幕府は測量目的のロシア軍艦の艦長ゴロウニンなどを、クナシリ島で捕らえた。ロシアはシャナ事件を私的な略奪であったと詫びて全員の釈放を求めてきた。
 
  忠敬と別れて文化九年二月蝦夷地に入った林蔵は測量の完成が任務であった事は明らかだが、ゴロウニンにも興味を持ち度々会いに行っている。このロシア人の傑作『日本俘虜実記』から引用してみよう。
 
 『日本俘虜実記』徳力慎太郎訳  講談社   三〇三頁
 
 その頃我われのところへ一人の新顔がやって来た。これは日本の首都から派遣されてきた測量家で天文学者の間宮林蔵と名のる者であった。
::彼は毎日のように我われの所へ通ってきてほとんど朝から晩まで過ごし、自分の旅行の話をしたり自分で描いた地図や風景画をみせたりした。

::彼の虚栄心は大変なもので、絶えず自分の手柄と旅行中の苦労談を語って聞かせ、そのよい証拠には旅行中持ち歩いて自分で食物を煮炊きした鍋を見せ、獄舎の囲炉裏で毎日その鍋で何かしら煮たり焼いたりして食べ我われにも振舞った。

::(シャナ事件に触れて)「あのあと日本側では船を三艘仕立ててオホーツクに送り出し同市を壊滅しようとおもっていた」と話した。(我われがからかうと)林蔵は腹を立てて、「日本人は戦争にかけては、どの国にも負けない」と断言した。::そして太陽と月、または星との距離からその場所の経度探知ができると聞いてきて、どのようにして知るのか、我われからその方法を習得したがっていた。

::こちらが断ると、この日本人は大変不機嫌になって「まもなく首都からオランダ語の通訳と日本人の学者が来て、学術関係の若干の事項について説明を求めることになっている。そのとき、拒否は出来ませんぞ。否が応でも聞き出してみせる」と威嚇した。
       
 舞台でも見ているように、林蔵の動作が生き生きと描かれている。幕府は彼らを釈放する方針だったが、林蔵は最後まで反対したという。
 
 文化十年十月、二年二ヶ月以上も続いた監禁の末ゴロウニンたちは日本を去り、その後五十年ほど日露間には平和がおとずれた。
 
 間宮林蔵の本格的な蝦夷測量が続けられた。熱中すると俗世間の事はどこかへ吹っ飛んでしまうのが彼の常であったらしい。ゴロウニン事件が解決した二年ほど後の、某宛忠敬書簡の下書きに次のようなくだりがある。文化十二・三年の頃である。
以下、タイトルクリック



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●南三陸沿岸での伊能隊の足跡

 −米国議会図書館蔵『伊能大図写』(写真版)による推定−
                                  渡 部  健 三
 
  米国議会図書館蔵『伊能大図写』発見のニュースは、日頃、忠敬にはあまり関心がないと思われている人びとからも、かなりの注目を浴びたようである。

  とくに、かかわりが深い地方の大図が新聞に掲載されると、こちらの言葉で「オラホ(自分らのほう)の道を通ったらしいな。いまは廃道になっていて残念だ」などという。

 表現はいかにも素朴だが、これなどは米国大図発見の報道に対する反響のなかでも、多くの重要な示唆を含んでいるような感じを受けた。

 岩手県内の地方紙には、享和元年(1801)第二次測量による「陸前高田、大船渡付近」「釜石南部付近」の二種が紹介された。

 幸い、写真版の提供をいただいたので、パソコン付属のスキャナを使って観察し、『測量日記』と、なるべく古い地形図を照合しながら、伊能測量隊の通過経路の推定を試みた。ここでは、地形図の海岸線を模写した略地図に経路(陸上は太線、海上は点線)を描きこみ、おもな地点に○で囲んだ数字を付して、概略の位置を示した。続きはPDFクリック


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・第四次測量における加賀藩測量の実態
     河崎 倫代   季刊 伊能忠敬研究 第17号より
 第四次測量は一大転換期
 1803(享和3)年の第四次測量は伊能忠敬全国測量事業の転換期であった。それまで「浪人」身分だった忠敬は、1805年の第五次測量から「天文方役人」に登用され、測量は幕府直轄の事業となった。客観的に見れば、加賀藩測量はそのような転換期にふさわしく、特徴のあるものだったともいえようか。
 南北に細長く、かなり複雑な海岸線の能登半島を有する加賀藩測量は、6月24日〜8月8日(太陽暦8月11日〜9月23日)までの43泊44日(石川県内37泊・富山県内6泊)にも及んだ。
次ぺ−ジの地図は加賀藩領内での測量行程図である。(本稿では金沢藩とその支藩である大聖寺・富山藩を総称して加賀藩と呼ぶこととする)
この行程図でのポィントは
 @支藩の大聖寺藩と富山藩では、応対・協力体制に特筆すべき点は ないが、金沢藩では警戒心をあらわにし非協力的な対応だった。
 A能登半島では、今浜村から手分測量を実施した。
   東海辺(内浦)・・・伊能忠敬・伊能秀蔵・香取慶助・小野良助・伊能吉兵衛の五名
   西海辺(外浦)・・・平山郡蔵・村津大兄・僕久兵衛の三名
 B「糸魚川事件」は加賀藩領を8月8日に出た翌日の出来事である。
 C福井(地図外)・大聖寺・金沢・富山の各城下をすべて訪れてぃる。
  (いずれも海岸線から数キロ内陸にある。日本列島を描き上げるだけなら、ひたすら海岸線を歩き続ければ事足りたはずだ。伊能測量隊が必ず各藩城下に立ち寄っているのはなぜか?  幕府御用としての制度上の必要からか、忠敬の個人的関心・好みからか、それとも、他に理由があったのだろうか)・・・続きはタイトルをクリック
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愛媛県温泉郡中島町の町史資料より
      伊藤 栄子   季刊 伊能忠敬研究 第16号より
愛媛県の中島町は、松山市の北西の方向、瀬戸内海上に浮かぶ7つの島と22の無人島(忽那諸島)を合わせて、現在は瀬戸内海国立公園に指定されている。江戸時代には一村一島の島々もあったが、明冶以降は町村制実施で統合され、さらに昭和に入って、村は町制により
上記の島々を編入して、今の中島町となっている。文化5年(1808)8月第六次測量の途次、伊能忠敬一行は中島地方にやってきた。稲生秀蔵ら弟子三名、幕府の下役四名その他若党、竿取、小者など、総勢十六名であった。8月1日には三津浜から興居(ゴゴ)島へ渡り、それより二神をはじめ各島々を調査した。しかし一行の測量が、すべてすんなり運んだわけではなかった。
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忠敬先生と筑前こぼれ話
                       河島 悦子    季刊 伊能忠敬研究 第33号より
 福岡藩編纂事業として現在も重用されている地誌に貝原益軒著「筑前国続風土記」、加藤一純著「筑前国続風土記附録」、青柳種信著「筑前国続風土記拾遺」の三大地誌がある。
 世に高名な益軒の「続風土記」は、筑前藩正史たる「黒田家譜」上呈の元禄元年(1688)に編纂許可をうけ、当時益軒先生59才であった。
   (中略)
 同9年、幕府測量方の海辺測量に同行、専ら忠敬師の質問に応じていたが、伝承によると、ある日、種信公用のため測量隊に姿を見せなかった。忠敬先生「なんだ、青柳は来ないのか」とたちまち不機嫌になり、一日中それは続いたという。(詳細はPDFをクリック)
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●東蝦夷地の会所
 
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東日本地域の記録
・駿河国須走村米山家日記
・蝦夷地での伊能忠敬の先触等
・越後国岩船郡内沿海測量について
・忠敬先生おおいに語る−前川家の接遇記録
・加賀藩十村役の報告書に見る伊能忠敬の領内測量

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