伊能忠敬e史料館
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伊能忠敬史料室
 伊能忠敬の測量作業は、彼が先ず筆まめであったこと、ならびに幕府お墨付きのプロジェクトに格上げされたことから膨大な古文書を後世に残しました。
・伊能測量のデジタル・データ
・測量日程
・伊能忠敬測量日記
・第一次測量の際の測量日記書き出し解読文
・伊能忠敬測量日記解読
・伊能忠敬江戸日記について
・一般的な史・資料(1)
・一般的な史・資料(2)
一般的な史・資料(3)
一般的な史・資料(4)

・地域史料:東日本
・地域史料:西日本
・測量を支えた各地の記録



言葉で探す:
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●伊能測量のデジタル・データ
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●測量日程
 年月日別宿泊地・宿泊宅・天体観測有無についての測量回数別・県別・の二本立て資料(Microsoft Word版資料)
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●伊能忠敬測量日記
 第一巻 蝦夷御用集録より
  伊能忠敬測量日記28冊の原文の書き出しである。
 第一次測量の際の測量日記書き出し原文
第一次測量の際の測量日記書き出し解読文
                                                                     (佐久間達夫氏の解読原稿)
 (第一次測量の際の測量日記解読文全体はタイトルをクリック)


  測量日記は見開き1,488面に達する。これらの全文の原文と解読文の2本立てのDVD版の制作を進めています。    
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伊能忠敬測量日記解読
佐久間達夫氏の解読原稿(改訂版)に、測量日程一覧表を添付し、地名、測量年月日から関係頁を直接検索できるようにした「伊能忠敬測量日記 解読CD版」の制作を進めている。
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●伊能忠敬江戸日記について
    富岡八幡の伊能忠敬銅像建立報告書より 

 伊能忠敬は測量に関する日々の出来事について、詳細な記録をつけており、日記は二種類残っている。一つは伊能忠敬先生日記といい、現場で毎日克明に記されたもので、51冊からなっている。
 
  もう一つは測量日記と題する28冊で、後に清書されたものである。内容はやや違っていて、測量日記のはじめ二冊には、伊能忠敬先生日記にはない測量を始めるまでの経緯などが記されている。

 伊能忠敬先生日記には、各測量旅行の間の、江戸滞在中のできごとも記録されている。本稿では江戸深川の富岡八幡宮への銅像建立を記念して、江戸滞在中も活発な忠敬の活動を紹介するため、伊能忠敬先生日記から、江戸滞在中の日記を抜き出し、伊能忠敬の江戸日記としてとりまとめたものである。
 
 本稿はこれまで、活字化されていなかったので、熟読した方は少ないと思われる。江戸の住人・伊能忠敬の幅広い活躍振りが理解されるキッカケとなるならば幸いである。
 
 残念ながら、個人事業だった第四次測量までの記録はなくて、内容は、幕府役人となった第五次測量以降のものである。しかし、伊能測量は日数でいうと、約80パーセントが幕府事業として行われたので、江戸の伊能忠敬を知るための史料としては十分参考になるだろう。

 ものすごく多数の有名・無名の人士が登場し、注釈をつけがたいが、できるだけ登場人物について、初出の場所で解説した。なお、天候しか記述のない日も結構多いが、煩雑なので、天候だけの日は省略した。

 また、背景が分からないと理解できない面も多いので、これについては、その場所で簡単な説明を加えてある。編集と整理の都合上、全体を五つに分け、仮に江戸日記第一から第五に区分した。原本として「伊能忠敬先生日記」の冊数を示している。

江戸日記 第一
 第五次測量帰着の文化三年11月15日から、第六次測量出発の文化五年1月25日までの日記である。忠敬先生日記の18と19にまたがっている。

江戸日記 第二
 第六次測量帰着の文化六年1月18日から、文化六年8月27日九州第一次測量出発の日までの日記である。忠敬先生日記の24に記載されている。

江戸日記 第三
 第七次(九州第一次)測量帰着の文化八年五月八日より同年11月25日第八次(九州第二次)測量出発までの日記である。忠敬先生日記の32に記載されている。

江戸日記 第四
 第八次測量帰着の文化11年五月22日から、文化11年12月30日までの日記である。忠敬先生日記50に記載されている。

江戸日記 第五
 文化12年1月1日から文化14年12月29日までの日記である。第九次の伊豆七島、第10次の江戸府内測量期間も含む忠敬死没前年までの記録で、忠敬先生日記51に記載されている。このあと死没の文政元年(文化15年は四月22日に文政と改元)四月13日までの日記はない。

 本稿は、伊能忠敬研究会理事で、元伊能忠敬記念館館長 佐久間達夫氏(佐原市在住)の編著により、伊能忠敬研究会会報に連載された「伊能忠敬江戸日記」をもととして、研究会編集委員の伊藤栄子氏が日記原本とつきあわせ校訂し、注釈や全体構成について研究会の渡辺一郎が加筆したものであります。

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●“江戸日記 第一”の解読と解説

 第五次測量で、紀伊半島、瀬戸内の島々、中国地方沿岸の測量をおえて江戸に帰着した日から、四国に向けて第六次測量出立の日までの記録である。

原本 忠敬先生日記一八  
文化3年11月15日
 朝曇 朝六ツ後川崎宿出立。二里半品川宿に至る。途中伊能三郎右衛門 大川治兵衛  上総粟生飯高 天満屋八右衛門出迎。
 
 品川本陣中食後坂部・下河辺は頭々へ届に別る。予は駕篭にて直に浅草御役所へ行く。三郎右衛門・治兵衛も品川より分る。夫より麻上下にて小川町豆腐屋敷須田久米治郎 猿楽町佐藤修理殿へ着届致し深川へ帰着

(欄外) 浅草御役所より下役出迎
同 16日 朝曇 亀嶋桑原隆朝 夫より堀田摂州侯 津田山城守侯へ行き暮に帰宿
同 17日  朝曇 間五郎兵衛見舞に来る
同 18日  同断 松野茂右衛門来る 夫より浜町.秋山松之丞へ越、浅草御役所へ行き地図仕立之御入用を御談話


《解説》
 江戸到着の風景である。川崎から品川までの間に、出迎え人が出ている。伊能三郎右衛門は、家を継いだ息子の景敬。大川治兵衛は、屋号を加納屋といい、津宮(佐原市)の人。江戸で両替商を営み財をなした。忠敬、景敬親子に帳元締(現在の会計士のようなもの)として仕えた。五八歳没。
 
 上総粟生飯高は、粟生村の飯高政四郎(貫兵衛)のこと。政四郎の義父・飯高惣兵衛は幼名を清三郎、字を尚寛、号を覇陵という。忠敬の出生地小関村の隣粟生村(九十九里町)に生まれる。20歳のとき、忠敬父の生家・神保家の親戚の伊藤家(中台村)に婿養子に入ったが、実家の兄がなくなって飯高家を継ぐ。

 九十九里屈指の網元として成功し、江戸北町奉行所組与力給地上総地方代官を勤めた。忠敬より11歳年上で、頼りになる先輩として親しかった。忠敬は潮来町の窪谷庄兵衛の忰・政四郎を自分の養子として、惣兵衛の娘・千枝のもとに入婿させていた。
 
 一同、品川宿本陣で揃って昼食のあと、下役の坂部と下河辺は所属する先手組の頭のところに挨拶に向う。下役は番方の同心のうち暦数に強い者が、天文方に手付として出向していた。人事権は所属組の頭にあった。まず、所属のお頭に挨拶ということである。

 忠敬は駕籠で浅草の天文方に向かい、ここで麻上下(カミシモ)に着替えて、自分の所属である小普請方の組頭の須田と小普請支配の佐藤修理のところに到着届に出る。そしてやっと深川の自宅に帰る。
 
 今回は幕府測量隊になってから始めての帰着である。手順は天文方・高橋景保と密接な打合せがしてあったろう。天文方から下役が出迎えているが、高橋への挨拶はあと回しで予定が進行する。

 翌日は忠敬の三人目の妻ノブの父で仙台藩の上級藩医・桑原隆朝のところに挨拶してから若年寄・堀田摂津守、佐原の領主・津田山城守の屋敷に廻って、暮れに帰宅する。
 
 一七日は大阪の冨商で、師匠至時の嗣子・景保を補佐せよとの幕命により天文方に出仕していた間五郎兵衛が忠敬宅に見舞いにくる。
 
 一八日は松野茂右衛門が訪ねてくる。松野は津軽藩士で忠敬の門人。あと忠敬は、奥祐筆組頭の秋山松之丞へ挨拶、それから浅草の天文方・高橋景保のもとへ出かけ、早速地図仕立て費用のことを話し合う。
  
 忠敬さん。帰った日からなかなか多忙であるが、二日目に若年寄や、領主への挨拶の前に元舅の桑原隆朝の下に出ているところはさすがである。桑原は伊能測量の影のパトロンだった。忠敬に嫁がせた娘ノブがなくなったあとも、ほんとによく忠敬の面倒を見ている。
 
  桑原は医者という仕事の関係からか、同じ仙台出身の為か分らないが、堀田攝津守と親しく、幕閣の雰囲気などを訊ねることが出来た。今回の測量では山陰地方測量中、忠敬は三ヶ月ばかり病気となり、隊務の監督が不十分で、隊規紊乱という問題があった。堀田侯へ伺候する前に、幕府内の動きが知りたかったものとおもわれる。
 
 忠敬が若年寄や領主の津田家(六千石)へ挨拶に出て、当主と親しく面談できるとは思わないが、挨拶くらいはできたろう。時間がかかっているところをみると話込んでいる。用人あたりに詳しく話して、取り次いでもらったかも知れない。
 
 堀田攝津守正敦(1755〜1832)は伊達宗村の八男で、近江堅田藩主堀田正富の養子となった。寛政二年、松平定信により若年寄に抜擢され、以後四十余年その職にあった。天文方を総括して、寛政の改暦を推進し、伊能測量を実施させ、いっぽう翻訳局を設けて海外科学技術の導入につとめた。また、寛政重修諸家譜の編纂を総裁するほか、博物、文雅の道にも詳しく、定信失脚後も風流の道を通じて定信と親しくつきあっていた。
 
 津田山城守。忠敬の頃の佐原村は家数千三百軒、人口五千人ほどで本宿、浜宿、仁i井宿、下宿、上宿の五組に分かれていた。安永六年一二月から旗本津田日向守の知行地となり、その子山城守信久、そして日向守信富(壮之助)と続いた。信久は西之丸小姓組番頭という上級旗本であった。

 間 重富(1756〜1816)。間家六代目重光の第六子として大阪長堀町で生まれる。 幼名を孫三郎、字は大業、号を長涯といった。通称を十一屋五郎兵衛といい、代々質屋を営み財を蓄え、棟が15もあったという。麻田剛立に師事して暦学天文を学び、麻田学派のスポンサーでもあった。

   当時日本に数冊しかなかった「暦象考成後編」を入手したのも重富だった。観測家としては垂揺球儀、子午線儀など多くの観測機器の改良をおこなっており忠敬も指導をうけた。寛政の改暦にあたっては、高橋至時とともに幕府の招請をうけ、天文方同格として御用測量に従事した。至時の死後は再び出府し若年の景保を補佐した。
(以下、pdfをクリック)
(上記pdfからの続き)
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●一般的な史・資料(1)
 @伊能忠敬測量日記解題    渡辺孝雄「研究会報7号」
 A忠敬の妻ミチの手紙       小島一仁「研究会報7号」
 
B忠敬と共に列島を測った人々   安藤由紀子「研究会報8号」
 C−存命候ハバ死罪−            伊能陽子「研究会報8号」
 D箱田良助の誓約書             伊能陽子「研究会報9号」
 E源空寺墓碑建立始末            伊能陽子「研究会報10号」
 F人生を貫く紐            伊能 敬「研究会報11号」
 G高橋至時と間重富        安藤由紀子「研究会報12号」
 H箱訴状                    伊能陽子「研究会報13号」
 I名乗書                    伊能陽子「研究会報14号」
 Jお信さん              安藤由紀子「研究会報15号」
  K南海鵬右衛門           伊能陽子「研究 会報15号」
 L伊能忠敬墓碑銘読み下し文  植田浩一「研究 会報40号」
 M才女・エイ 最新情報       小島一仁「研究 会報33号」
 N『家牒』伊能家先祖書      小島一仁「研究 会報26号」

 O桑原隆朝(その1)         安藤由紀子「研究会報16号」
 P桑原隆朝(その2)         安藤由紀子「研究会報17号」
 P-1桑原隆朝(その3)        安藤由紀子「研究会報18号」
 Q伊能忠誨の日記      佐久間達夫「研究会報32号」
 Q−1 続伊能忠誨の日記
 R影の功労者・高橋景保   安藤由紀子「研究会報33号」
 S忠敬と蝦夷地派遣の幕吏たち 堀江敏夫 「研究会報33号」




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一般的な史・資料(2)
@知らされていなかった長男景敬の死  岡本暉子 「研究会報18号」
A二人の師       
         安藤由紀子「研究会報18〜号」
B未公開忠敬書簡
C伊能豊秋日記
D大川治兵衛宛書簡          安藤由紀子「研究会報37号」
E丹後丹波の道
F忠敬と間宮林蔵               安藤由紀子「研究会報29号」
G
伊能忠敬測量隊が観測した星  佐久間達夫
H今井八九郎の「室蘭図」
I間宮林蔵の病状・死因
J忠敬が遭遇した二つの別れ
K小野良助と和算
・続 和算の人脈 
M多良街道
N高橋景保の登場
O伊能忠敬と間宮林蔵 師弟の絆が蝦夷地の地図完成
P伊能測量隊員 柴山傅左衛門について
Q伊能忠敬と久保木清淵との契
R伊能測量隊 子午線一度の長さの測定
S忠敬と漢文の一紙

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一般的な史・資料(3)
・源空寺の忠敬墓碑銘拓本
・西蝦夷地測量断念の背景
・静岡の御注進の覚
・忠敬の前半生 生活の地・佐原
・忠敬による佐原村粉名口付近実測図
・江戸八丁堀亀島町「地図御用所」と伊能図
・忠敬と亞欧堂田善
・鳥取に残された古星図
・渋川家と養子景佑(高橋善助)の家族
・旌門金鏡類録
・伊能忠敬測量日記にみる地震
・筑後国一條原石人図
・伊能忠敬測量隊が閲覧した神社・寺院の縁起や宝物
・伊能図の三人
・伊能忠敬と米沢街道
・忠敬先生をめぐる或る古書をめぐって
・動き出した西国測量
・伊能忠敬測量隊の東京多摩地区測量


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一般的な史・資料(4)
・伊能家文書紹介 文化元年のこと        安藤 由紀子
・加賀藩天文暦学者 西村太沖           河崎 倫代
・天文方高橋至時・その土涯・業績・影響
・伊能忠敬の足跡を辿って            河島 悦子

・伊能忠敬旧宅跡発掘調査概報
伊能忠敬と箱田良助
・箱田良助の次男・榎本武揚           伊藤 栄子
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●地域史料:東日本
・豊田市の史料について
・伊能隊の宿泊した家がわかった!
・糸魚川事件始末
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●地域史料:西日本
・滋賀県日野町
・愛媛県:伊予・川之江村
・熊本県八代大築
・長崎県対馬 五島
五島の歴史と風土
・徳山藩御用絵師朝倉湖内
・毛利徳山藩における伊能測量
・続・毛利徳山藩における伊能測量
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●測量を支えた各地の記録

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