伊能忠敬e史料館
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測量術・測器室
 この部屋では伊能測量隊の行った10回に及んだ測量の軌跡(測跡)及び測量方法(測量器具を含む)を解説しています。

 伊能測量隊の行った測量術をわかり易くいうと、当時 村うちの道路とか田畑・宅地などの測量で使われていた導線法とか交会法と同じ簡単な方法で日本全土を測量した ということができる。伊能測量隊の作業を観察した同時代の測量家は、“伊能測量は特別なことはしていない”と書き残している。 
  測量作業は誤差とのたたかいである。忠敬は、誰でも知っている簡単な方法で広範囲の測量をおこなうにあたり心がけたことは、作業を丁寧におこなうということであり、いまの言葉でいうとシステム的に誤差を減らす工夫を凝らして、日本全図を完成した。
 その工夫のなかで最も大きかったのは天体観測を併用したことである。
地図制作のとき天体観測によって緯度を確認すればよいということは、忠敬の100年前に徳川吉宗の命により日本図を編修した数学者・建部賢弘がいっていたことである。しかし実行する人はいなかった。 
 忠敬の測量は緯度一度の観測からはじまったこともあり、当然のこととして天体観測が併用された。これは測天量地と云っており、伊能測量の表看板でもありました。




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●伊能測量の測跡
   (第一次測量から第九次測量の測量ルート拡大版はタイトルをクリック
更新日: 2010年7月2日
 
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●伊能測量の測量方法と測量器具
 測量作業は誤差とのたたかいである。忠敬は、だれでも知っている道線法とか交会法という簡単な方法で広範囲の測量をおこなうにあたって心がけたことは、作業を丁寧におこない、いまの言葉でいうとシステム的に誤差を減らす工夫を凝らして、日本全図を完成した。

1.距離の測定方法導線法
 具体例として、図1のような海岸を測ることを考えてみる。当然ながら、曲線添いに直線の連続となるように杭を打ち、杭の傍らに図2のような梵天(ぼんてん)を建てて直線の距離と方角を測った(ちなみに、伊能図に残っている朱色の測線は図1のようにして測量した痕跡を表現したものである)

伊能図(朱色の線が測線
 
 梵天とはいまのポールにあたり、竹の先に数枚の紙を短冊状にしてつるしたもので、当時はどこでもつかわれていた。伊能隊もこの梵天を現地で用意をさせている。
 
 距離の計測には、はじめはごく普通の苧麻(ちょま;カラムシの茎の繊維から製した麻糸)の間縄(けんなわ)が用いられた。縄は価格がやすいが、水分による伸縮とか、強度が弱い、強風時には風にあおられる、などの欠陥があり、材質を変えて工夫されたが、不十分なので、特別な場合を除き、第3次測量以降では鉄鎖が用いられた。
 
 鉄鎖は両端に輪をつくり、内法を1尺とした鉄線を60本つないだもので、忠敬の考案である。それでも引いて歩くと磨耗するので、毎日、事前に間棹で検査をした。 
 
 間棹(けんざお)は長さ2間というから、3.8mくらいの長い棹で、扱いの便を考えて2本繋ぎとしている。間棹は短い距離の測定には他でも使われていたが、2本繋ぎで2間としたのは忠敬の知恵ではなかろうか。

 約4mの長さがあると、岩場など縄や鉄鎖を当てにくい場所で距離の見当をつけたり、川幅を三角法で測るときに見当をつける役に立ったろう。

2.坂道の測量
 
小象限儀
 傾斜のある坂道では、携帯用の小象限儀(しょうしょうげんぎ)で勾配を測り、割円八線対数表(かつえんはっせん・たいすうひょう)という現在の三角関数の対数表に相当する数表によって平面距離に変換した。

 三角測量はおこなっていないが、三角関数は利用しており、川幅などは容易に測定された。例外的であるが、富士山の高さも何カ所か、中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)で測られられている。

 ただし、海抜何メートルという基準面の発想が無かったから、場所によって高さが異なる。同じように海岸線を満潮時で判断するか、干潮時の線とするかの基準はなかったようである。おそらく場所ごとに海岸線と認識されていたラインを測ったと思われる

3.曲がり角の方角の測量方法
 距離を測ったあとは、曲がり角の方角を測らなければならない。方角を測るには主として杖先羅針(杖突羅針)が用いられた。これは図3のように1本の杖の先に羅針盤をとりつけたもので、ジャイロ・コンパスのように杖が傾いても羅針盤自体はつねに水平が保てるようになっている。

 湾果羅針(わんか・らしん)と難しい名前もついているが要は杖先磁石である。この当時どこでも測量につかわれていた。便利な道具で三脚にくらべると格段に使い易い。伊能測量に使われた器具のうちでは最も役に立ったといわれる。忠敬は杖先羅針の構造と使い方には工夫を凝らしている。羅針の台の構造を変えて早く安定するよう改善している。

 杖先方位盤の目盛りは方角を直読できるよう逆目盛となっているが、これは忠敬の考案ではなく、普通におこなわれていたものである。また、どのくらい効き目があったかわからないが、羅針を見る者は大刀を身につけず、竹光の小刀だけを帯するようにした。正・副2本の羅針が1組になって測定して平均をとっている。
ちなみに、深川八幡宮にある忠敬銅像で忠敬が右手に持っているのが杖先羅針である。
 いま、図4において、直線Aを測るものとする。梵天Tの場所では正羅針(本羅針といった)が直線Aの北に対する方角を測り、梵天Uでは副羅針(添羅針<そえらしん>といった)が直線Aの南に対する方角を測った。

 
方角は磁針を北または南に合わせてから覗尺を目標に向ければ直読できる。2つの測定値は同じでなければならない。それぞれの測定値は、書き役が梵天持ちの持っている記録表に書き込んだ。正・副羅針は下役または内弟子が担当したが、複数の要員が配置できたときは、それぞれが測定し正副とも複数のデータを記録した。

 データは宿舎で野帳に転記する際に平均した。日常作業のなかで誤差を減らす知恵である。伊能隊は第五次測量以後は、多いときは、4組くらいの手分け測量をしているから、杖先羅針は少なくとも8本はもっていたことになる。 

4.交会法
 また、直線の方角を測ると同時に、ごく近くの目標(例えば、寺院の屋根、大木の梢など)を設定し、各屈折点からこれらへの方位を測って同じように記録表に記した。そうすると、あとで下図を書いたとき、距離の読み違いがあると発見され、補正が可能である。

  図5でAB間の距離を測り違え、AB’に相当する距離を記録表に書いたとすると、目標への方位が集まらないので、誤差の存在がわかる。測量術としての交会法(こうかいほう)の応用である。
 
 
このように直線部の距離と屈折点の角度をつぎつぎに測りながら測進する方法を導線法といい、当時も広く行われていた。普遍的だった導線法交会法が伊能測量の柱であった。

  交会法の目標の方角は丁寧に取られ、曲がり角毎に目標が測られたようである。筆者の実験では、目標をどこにとるかがキーポイントであった。ある距離を測進する間、共通に利用できて、なるべく近い目標がよい。遠すぎては下図の用紙から、はみ出して検証できなくなる。
伊能図に残っている方位線

5.測量作業班の構成
 これまでの作業を現場の情景にあてはめてみよう。ひとつの測量作業班はつぎのような要員で構成された。梵天を立て記録表を持っている梵天持ち数名、鉄鎖を運搬し梵天の間を引き回す役、距離を読みとる役、読みとられた測定値を記録表に記入する帳付け役、記入が終わった記録表を集める役、杭打ち、杭持ち役などである。 
 
 村境、目標となる岬などには予め村側で標識が立てられていた。当日の予定区間は前夜、村役人などを交えて決められているが、全体の地形を把握するため、村側から予め提出させた絵図面を現場に持参させる場合もあった。(絵図面持ち人足が増える)
 はじめに、昨日の最終の杭の位置に梵天を立て、ここから見通して当日の第一梵天の位置をきめなければならないが、それを責任者の下役(多分、本羅針が兼ねた)が宰領の村役人に指示する。村役人は梵天持ちを走らせて位置につかせ、本羅針からOKが出れば、杭を背負っている杭持ちと掛矢を持っている杭打ちに、杭を打たせた。   
 
 つぎに、鎖持ちが鎖を伸ばす。距離を読むのは下役・内弟子もおこなったかも知れないが、主に棹取り(さおとり)という名の中間(ちゅうげん)だった。梵天の間隔が広くて鉄鎖が届かない場合、あいだに棹を立て中継ぎをしたり、鎖の張り方をみたり、1間(けん)以下の長さを間棹をあてて読んだりした。

 測定値は帳付けの村役人が梵天持ちが持っている記録表(手札てふだ)に書込む。棹取りは小者の身分だが、棹取りとして雇われ、忠敬や下役がつれていた従者よりも上の扱いであった。
 
 正・副羅針は下役または内弟子の役で、ほかに指揮者がつかないときは正羅針が指揮者を兼ねた。羅針は距離計測のあとを測線の方角と交会法の方位を測りながら進む。帳付けは測定値を記録表に書き込む。正・副羅針のほかに下役・内弟子がいればその者も羅針を読む。

 書き込みが終わった記録表は、鴬持ちという記録表を集める係が、竹串に順に一枚づつ刺して集めて行く。忠敬が作業に参加する場合は、正羅針を務めた。伊能測量後半では出迎え・挨拶人が多いので、忠敬が作業チームに何時も入れたかどうかは疑問であるが、時々は参加したのであろう。

 第八次測量の際でも忠敬が羅針を扱い、メモに記録していたという見聞録が残っている。測定が済んで、つぎの梵天に杖先羅針を移動するときは、村人足が運搬したかもしれない。それでも、直接測量作業を応援する人足は1班あたり十数名でそんなに多いものではなかった。
 
 ほかに、下役または内弟子1名がが測線の周囲に肉付けするため、周辺風景の写生に従事したので、画台、道具持ちが必要だった。下役がつれていた従者は、個人的な使用人であるから近くにいたとおもう。忙しいときは作業を手伝った。
 
 測量中の私的荷物で一番扱いが大変だったのが大刀である。あまり離れるわけにいかなかったし、ひとりに何本も持たせるわけにもいかなかった。測量風景を描いた図では、測量班のすぐ近くに村人足が1本づつ刀を持ってしたがっている絵が出てくる。 

 作業は日の出と同時にはじめて、遅くとも14〜15時ころには宿についているから、作業時間は一日約7〜8時間である。幕府事業になってからは、ひとつの作業班の一日あたりの作業は多くても2里くらいなので、進行速度は1時間に約1Kmとなる。

 作業せずに、予備器材、記録資料などの荷物運搬、または附いて歩くことだけが目的のお供の人達は別の意味で大変だったろう。忠敬はどこでも測量班よりも早く宿舎についたようである。

6.横切り法
 道線法・交会法と合わせて、伊能測量の精度維持の柱となっているのが横切り法である。岩場の多い岬の先端など、如何に努力しても正しく測るのは難しい。そのときは、岬の付け根部分で測り易い横切りルートを測って、岬の測定誤差が全体に影響しないようにした。

  横切り法は全体的な地形確認にも用いられた。伊能日本図をみると、四国は海岸を一周して測っているが、縦に1本だけ縦断する測線がはいっている。これが横切り測線である。分遣隊を土佐から国境まで北上させ、反対側は川之江から同じ分遣隊を南下させて連結した。
 
 沿岸を廻って測進した位置よりも横切り線の方が精度が高い。これによって沿岸測量の精度をチェックしたのである。このとき、必ず誤差が出た筈であるが、その処理について記録がないのは残念である。

 中国地方に至っては、沿岸のほかに内陸部を縦横に測線が走っており、忠敬は念には念を入れている。全国図をまとめる際に中国地方を基準にしたといわれている。          
 
 測量現場近くの目標を交会法の確認データとして利用するとともに、遠方の著名目標、例えば富士山は遠方交会法の目標として、現在地の確認によく使われている。富士は各地から見えるので、街道と沿海を測量しながら富士の方位を執拗に測っており、富士山の位置は地図上で確定していた。

 したがって、逆に富士が見通せれば導線法の結果の確認が出来た。測量日記の享和元年7月26日の項に、「富士山を測りたくて、各地に人を出して試みたが曇天でうまくゆかなかった。この日犬若崎で尾形慶助が冨士を測定できて嬉しかった」と記している。滞在9日目だった。
 
 ここに述べた測量法は伊能測量が幕府直轄事業となった第5次以降の状況をイメージしている。しかしながら、その骨格は第2次測量で固まったと考えられる。第1次は全くの手探り、しかも距離は歩測が主体だった。忠敬も自信がなく、経験に照らして第2次では測量法の大改善をおこなったと思われる。その方法で伊豆半島から銚子まで複雑な地形を測ってきて、その精度を確認したかったのだと思う。満足すべき誤差の範囲にあったので、喜んだのではないか。

 ついでであるが、第5次以降の幕府測量隊となってからの測量日数は全測量日数の80%に達する。
 
 各地から富士を測った結果が40本近く伊能中図には記されている。実際には200カ所くらいから測られたことが伊能忠敬記念館蔵の山島方位記に記録されている。          
 
 伊能記念館にゆくと、量程車という距離測量用の器具がある。引いて歩けば、直線距離を車輪に連動する歯車で回転数に直して表示する器具である。アイデアとしては面白い。しかしながら、実用にあたっては、平坦地で固い道路でなければ使い難いなど、沿岸測量の多かった伊能測量では出番があまりなかった。城下など縄を張るのがはばかられる地域に用いられた。 
 
  第3次測量以降では原則として鉄鎖が使われたといわれるが、沿岸・島嶼などで鉄鎖が使い難いところでは縄が使われた。縄の材質は、鯨のヒレが一番よかったという。工夫したものである。その他でも縄が使われた記録は見られるから、間縄もかなり使われたと思われる。
 
 伊豆七島・御蔵島の測量では、沿岸を測るため、人が泳いで縄を引いたことが測量日記に出てくる。また、三陸、伊豆半島などでも海中を船で引き縄がされており、対馬などでは専ら船が使われたようである。縄引きと一言でいうが、厳しい海岸では大作業だった。地域によっては、境界争いになっている場所もあった。

 このような所で、杭を打って伊能隊に距離を測られては大変と大騒ぎだった。天草では代官が村方へ念書を出して、この杭は測量のためばかりで、後日の証拠にはしないと約束している。ところによっては、人足だけ出させて、村役人は来ないよう指示しており、苦労をしている。幕府老中の命令書があってもこんな状況であった。

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●測量隊各隊員の役割
◎内弟子
 忠敬に従って測量に従事した門人。身内の若者や縁者を採用した。第四次測量までは補助金を頂いた忠敬の個人事業だったから、内弟子との契約内容はわからない。第五次以降では全体が幕府事業になったので、幕府から内弟子にも手当てが支給された。

◎天文方下役
 幕府の番方の各組、例えば御先手組などの同心から、天文・暦学に通じたものが天文方(暦局)に出向し、天文方(旗本)の手付け下役を勤めた。測量隊に派遣された下役は、忠敬を補佐して作業指揮にあたった。

◎供侍
 幕府事業以降の忠敬の職名は天文方手付け手伝。各組与力格だったので、格式として侍の供が必要だった。実際にどんな仕事をしていたかわからないが、内弟子の下、従者の上という扱いだった。忠敬の雇用人なので手当ては出ないが、上分として扱われた。

◎従者・下僕
 忠敬と、幕臣である天文方下役が、自費で連れて行った供。主人の身のまわりを世話したと思われるが、人手不足のときは測量作業を手伝った。

◎棹取り
 第五次測量から設けた役割で、間縄、間棹、鉄鎖、などを使って距離測定の作業をおこなった。海岸では舟の寄せ方など指示したので、馴れないと難しいと忠敬はいっている。従者より身分は上、供侍の下だった。

◎長持宰領
 「長持」は時代劇に出てくるが、主として完成した下図・測定データ・机上作業用品・参考地図・資料・書類などを入れた運搬用のお駕篭のような長方形の箱である。人足四人で担ぎ重量は弐拾貫目以内ときめられていた。

 長持ちを中心として伊能隊が携行している物品管理は、当初内弟子の一人がおこなっていたが、規模が大きくなってからは、測量技術者である内弟子の兼務ではなく、専担者が置かれた。身分的には内弟子と同じだった。いはば、庶務担当の内弟子で、伊能隊の日常業務を円滑に遂行するためには重要な役割だった。

◎そのほか測量に必要な人足
  伊能隊に随従した人数のなかには、単なるお供のために、ついて歩いた人数も多いが、測量作業に直接必要な手伝い人足を挙げると次のような職種があった。人数は難易度、作業量で変化があるので、同じではない。

○先払い 行列の先頭に立って、邪魔な人馬をよけさせ、道路の清掃もおこなう。町奉行、郡奉行、浦奉行配下の同心が務める場合と、町や村の役人が、羽織・股引で、脇差を差して務めた場合があった。箒持ち、箕持ちなど清掃用具を持った人足を帯同した。武士に出会ったときは、「公儀天文方」と断って道を譲ってもらった。

○前後指図人   手伝い人足の指揮者。気の利いた村役人が指名された。
○梵天持ち    測量の目標となる梵天の持ち人足。 
○鎖持ち(縄持ち)測定用の縄または鎖、あるいは両方を運ぶ人足。梵天の位置が決まると、 
           測定用の鎖、縄を伸ばした。     
○杭打ち     梵天の傍らに測定杭を打つのは、掛矢を持った杭打ちの担当。
○杭持ち     杭を沢山背負っていて、杭打ちに杭を渡す。
○縄引き     縄引き作業する役。
○磁石持ち    方位測定のための磁石を持ち運ぶ。
○半円盤持ち   遠方の方位を測る半円方位盤を持参する。  
○画台持ち    沿道風景を描写のための画材持ち。
○台持ち     小方位盤、半円盤などの台持ち。
 
 以上のような直接作業を応援する人足のほか、隊員へのサービスのため付き廻った要員も多かった。

○箱持ち     御証文箱の持ち人足。
○両懸持ち      忠敬の格式として従えた両懸の持ち人足。
○駕籠人足  忠敬の駕篭。作業中は乗らないが、終って宿舎に向かうときなどに使われた。
○床几持ち   ひと休みするときの床机(折り畳み腰掛)を持って歩いた。主な隊員用のみ。
○刀持ち    測定に従事する内弟子以上は、磁石を狂わせないため、作業中刀を預けた。
  
その他、○茶釜持ち、○縁台持ち、○へっつい持ち などサービス要員には、きりがない。しかし、最初からこんなに多数の応援要員が付いたわけではなく、第四次測量で東日本の図が完成して、将軍の上覧を受け、幕府役人となってからの状況である。


  
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●伊能測量隊の主要メンバー
 内弟子
・平山郡蔵
・平山宗平
・伊能秀蔵
・箱田良助
・尾形慶助
・永沢藤次郎
・植田文助
・久保木佐右衛門
・神保庄作
・保木敬蔵
・宮野善蔵
・佐藤伊兵衛
天文方下役
・坂部貞兵衛
・坂部八百次
・門倉隼太
・小野良助
・芝山伝左衛門
・永井甚左衛門
・門谷清次郎
・高橋善助
・青木勝次郎
・市野金助

履歴などはタイトルをクリック
 
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伊能忠敬の測量術
   金窪 敏知     研究会報 第31号

 伊能忠敬は、寛政七年(1795)五十才で江戸へ出て、浅草暦局 高橋至時の門下生となったが、彼が測量技術を身につけたのはその前半生の佐原時代であるといってよい。
 利根川下流域は毎年のよぅに洪水に悩まされており、佐原村の大地主であり、名主であった伊能家の主人には測量術を身につける者が多かった。神保家から婿養子に入った忠敬に最も大きな影響を与えたのは、妻ミテの祖父伊能景利であったといわれる。景利は、忠敬が入夫する三十六年前、一七二六年に五十八才で没しているが、洪水後の堤防の修築や土地の整理に関連して測量術の素養があった。十七世紀末の元禄年間に幕府が国絵図の作成を行ったとき、景利は地頭所の命を受けて佐原全村の測量を行い、村絵図を作って呈出している。また、近世初期の約百五十年間にわたる佐原村および近隣の村々に関する重要事項を書き記しで、「部冊帳」と名付けるなど、諸種の記録の保存に心掛けるところがあった。忠敬が、後年詳細な測量日記を記録した背景には、景利から受けた刺激があったことは否めない。 

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下絵図に沿った伊能測量の追体験
(原文のタイトル:忠敬の歩いた道を高山に辿る)

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●伊能忠敬と羅針
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伊能測量隊の経度測定方法(古文書より)
 伊能忠敬は、全国測量の際、距離や方位の地測とともに緯度・経度の天測をし、それを地図作成に生かした。しかし、経度測定に関係した記録は少なく、地図上でも細部にわたった記述は見当たらない。従って筆者のように天測についての知識の乏しい者には、経度の測定についての解明は容易なことではない。そこで、経度に関係した記録を主に記してみたい。
更新日: 2010年7月2日
 
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●歩測実験
       岩田 重男 日本計量史学会副会長・工博  季報 伊能忠敬研究 第10号より
 1、はじめに
 歩測は古代から現代まで行われている最も重要な長さの計量方法の一つである。人類は約五百万年前に直立二足歩行をはじめてから、生活のため常に地球の表面を歩いてきた。特に我々の属するモンゴロイドは古代世界における最大の旅行者で、二十万年前から一万年前までに東アフリカからユーラシア大陸を横断して北アメリカに渡り、南アメり力の南端まで達している。
 中国の法顕(399−412旅行)・宗雲(518−521旅行)・玄奘(629−645旅行)は西域からインドヘ求法の旅を行ったが、行程の大部分は歩測により測っていた。
 このたび伊能忠敬研究会により行われた第一回歩測実験は、その規模も条件も満足すべき状態ではないが、わが国で行われた最初の組織的な歩測実験として、記録すべきものと考えられる。続きはタイトルをクリック

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伊能忠敬と測地尺度
      藤岡 健夫  季刊 伊能忠敬研究 第11号(1997春季号)より
 千葉県佐原市にある忠敬記念館には、忠敬が使用した二本の尺度(ものさし)が展示されている。これは、かつて伊能家の土蔵に、錦の袋に納められて、保管されていたという。何れも一尺の尺度で、全体の大きさと、構造が少し違っている。
 大谷氏の大著「伊能忠敬」には、大きい方の尺度については、その寸法と形状が、小さい方の尺度については、寸法のみが尺貫法単位で詳しく記されている。これを元に寸法をミリに換算して、現代風の図面にしてみると、図1の通りである。即ち、長さが360mm、幅が42mm、厚さが4mmほどの真鏑の板に、長さ万向に3.15mmの間隔で、11本の平行線が刻まれており、これに直角に一分毎に目盛が入っていて、一尺の尺度になっている。更に図のように一分毎に対角斜線が刻まれていて、11本の平行線と交わっている。この尺度には計算尺のカーソルのような、同じく真楡製の副尺が付いており、これを滑らせて副尺の一端と、斜線との交点を読み取ることにより、厘の値まで読むことが出釆る構造になっている。また副尺には、蝶ネジが付いていて、随所で固定できるようになっている。尺度の一辺には、副尺が尺度に密着してスムーズに動き、かつ蝶ネジで固定しやすいように、幅5.5mm、厚さ3.6mmほどの細長い真楡の板がネジで固定されている。
(続きはタイトルをクリック)
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富士山の方位測定
 
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伊能忠敬は1805年のBiela彗星を見ていた
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●測量器具a
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更新日: 2010年2月27日
 
●測量器具b
←pdfで表示します。
更新日: 2010年2月27日
伊能測量隊坂部組・大隅半島基底部測量
   (本文は画像のクリックで
「再現!海上引縄測量」 −唐丹で実演ロケ−

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