伊能忠敬e史料館
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伊能測量談話室
       ・伊能忠敬隠宅の天体観測所
       ・★銚子で富士山を確認
       ・忠敬の測った富士山の高さ
       ・★伊能忠敬・伊能測量隊 県別よもやま話
       ・★伊能忠敬の西洋科学知識
       ・伊藤忠敬との出会い
       ・★伊能測量よもやま話
       ・
伊能忠敬Q&A   二つの墓所
       芳名録「後藤新平」
       ・忠敬に贈られた漢詩
       ・忠 敬 を 詠 む
       ・人望の厚かった忠敬

       忠敬は長寿だったか?
       ・能登半島に吹いた忠敬の風
       ・太鼓谷稲荷神社伊能図探訪
       ・未完の天文暦学者 伊能忠誨
       ・「榎本武揚文書」解読余話
       ・星を見た人々
       ・文化の開拓者 伊能忠敬
       ・忠敬周辺の人々
       ・文化の開拓者
       ・忠敬と刀
       ・伊能忠敬と八王子同心
       ・伊能家の先祖書 「家牒]
       ・来訪者・訪問先
       ・新しいことを知る喜び     佐久間達夫
       ・もう一つの伊能図
       ・もう一つの伊能図は役だっていた
       ・伊能測量隊 長崎に来る
       ・佐原邑河岸一件
       ・二つの家訓
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●伊能忠敬隠宅の天体観測所
 忠敬は隠宅に観測機器を設置して、熱心に天体観測をおこなったが、観測の規模について大方の誤解が甚だしいので訂正しておきたいとおもう。
 
観測方法として、機器を物干台に並べて星を覗いているアマチュア天文台的イメージが持たれているが、忠敬が保有した観測機器はたいへん大掛かりなものだった
 
幕府天文方(暦局)に設置された機器に匹敵する大型器械を多数用意しており、測量開始後でも、江戸在府中は、天文方の下役が観測のため来宅している。(江戸日記)

一部の簡単な器械が、物干しに置いてあったかも知れないことは否定しないが、機器類の物量は、物干し台というような規模ではなく、とうぜん地上だった。ただ、場所は幸七店(測量日記)というから貸家である。
 
貸家となると短絡的に長屋のイメージで語られるが、貸家といっても、差配、大屋が居住するような大きい住宅だったろう。伊能隊は測量旅行中でも、夜の天体観測のため宿舎選定には、近傍に、南北に見晴らしのよい10坪ばかりの土地が有ることを必須条件としているから、隠宅に庭がなかったとは考え難い。
 
忠敬宅の観測所の機器
 象限儀(しょうげんぎ)は3種類を保有していた。   
  大 据置型 四半円の半径 六尺
  中 可搬型 四半円の半径 三尺八寸 立柱八尺六寸
  小 携帯型 四半円の半径 一尺二寸
 大・中の象限儀は恒星の高度を測るのに使われたが、中象限儀は測量旅行用なので、隠宅での観測には大象限儀が使われた。

大象限儀は、四半円だけが千葉県香取市の伊能忠敬記念館に残っている。架台は推測するしかないが、渋川景佑が編纂した寛政暦書のなかに、天文方に備え付けられていた大象限儀の図が出ている。これと同じような大仕掛けのものだったろう。

中象限儀は測量に持っていったもので、組み立て式だった。寸法図が残っており、伊能忠敬記念館に実物と同じ模型が展示されている。色々な本に紹介されている一本の柱に吊るした中象限儀は、以前に伊能忠敬記念館で仮柱に掛けられていたときの写真で、実際のイメージとは大きく違うものである。

筆者はかつて、NHKテレビの撮影に付き合って、実物と同じ大きさの組み立て式中象限儀模型を作ってもらったことがあるが、解体しても馬一頭にはつめない大掛かりなものだった。
 
小象限儀は小さなもので、坂道の勾配を測るのに使われた。坂道を測ったとき、水平面に対する仰角を計測しておいて、割円八線対数表という三角関数表のような役割をする数表を使って、平面距離に変換するのである。
  
その他、大型機としては、日影を測る圭表儀(けいひょうぎ)がある。   
  地上高 一丈二尺八寸(天文方のものは二丈)
  圭盤長(日影盤の長さ) 四間半     である。

圭表儀は太陽の日影の長さを日々計測して、南中の時刻、軌道の変化などを観測する機器である。圭表の上部の間隙を通して圭盤の上に投影される太陽の影は、高度が低いと圭表から遠くなり、高度が上がると圭表に近づく。

南中前後の影の位置を、毎日毎日測ったのであろう。その時刻の太陽高度も象限儀で測る。おそろしく根気のいる大変な作業である。

こうしていると、春分、秋分、夏至、冬至などの暦ができる筈である。頒布されている暦との誤差も検出できたろう。だから、毎日一定の時刻には家にいたいのである。また、屋上の物干し台というような観測所でないこともご理解いただけるとおもう。

その他に、次のような機器があった。
垂揺球儀(正確な振り子時計。振動回数で時間を表現)
   子午線儀(恒星の子午線通過を判断する)  
     長表 高さ一丈一尺
     短表 高さ五尺五寸
子午線儀(同、組み立て式のもの)  
長表 高さ七尺
     短表 高さ三尺五寸 
   測食定分儀(望遠鏡の先端につけ食の進行を判断する)
   星鏡(天体観測) 長さ七尺八寸 台付き
    同       長さ五尺
望遠鏡(地物観測)長さ三尺
同        長さ二尺四寸
方位盤      径 一尺二寸

                           

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銚子で富士山を確認
 
 第二次測量の大きな特徴は、第一次の反省に基づいて、作業方法を大幅に改善し、マニュアル化がおこなわれたことである。距離は間繩を張って測る。測線の方位は正方向からと逆方向と二度測って平均をとる。距離の読み違い防止のための近傍交会法目標のとり方、測り方。遠方の交会法目標の設定と計測の頻度。など以後の伊能測量の作業要領は第二次測量からおこなわれたらしい。また、地図についても針突法で制作されたのは第二次測量以降である。。 

 そういうマニュアル化の記録は何処にもないし、当時から測量に従事した内弟子尾形慶助、のちに幕臣渡辺家を継いだ渡辺慎が記した唯一の伊能測量解説書『伊能東河先生流量地伝習録』にも書いてないが、周辺状況からそう推測できる。 
 
 享和元年(1801)7月26日の測量日記に晴天、この朝、日の出、犬若岬にて尾形慶助 富士を測る。19日より富士山の方位を測らんと、日々手分けし、高に上り遠く出しけれど、日々蒙気おほくして見えざりき、この朝、富士山を測り得たり、其の悦び知るべし、余病気も最早全快に及べり、この日奥州小名浜まで先触れ出すとあり、文面に喜びが溢れている。
 
 これはなにを意味するか。房総沿岸の測量に忠敬は37泊を費やしたが、連泊したのは、半島先端の洲崎(すのさき)(4泊)と銚子(9泊)だけで、いずれも富士山の方位を測るためだった。銚子で九日目に富士を測れて嬉しかったというのである。
 
 富士山の位置は、江戸の自宅からと、伊豆半島測量中にしつこく測り、測量図のうえでは確定していた。そこで洲崎と銚子で、これまで測ってきた測量図の図面上の富士山の方位と、現場における実際の方位を対比したかったのである。

 とくに、銚子での測定は新しい作業マニュアルにより、複雑な地形を測った結果であり、伊能式測量術の完成度の総合確認のような意味があったろう。九日待ってようやく測り、嬉しかったというから、精度は期待値の範囲に入っていたにちがいない。
 
 富士山の望見を求めて銚子に滞在中、佐原から船で親戚一同が見舞いに訪れたが、滞在が長引いたので、見舞い客は段々に引き揚げていった。しかし、知友の漢学者・久保木清淵には特に、武州、相州、豆州、両総州、房州の沿岸地図の下書きを依頼した。これまでに描かれた測量下図の写しを渡して、絵画風に仕立てる試みを依頼している。
 
 第一次測量の地図は、蝦夷地は鳥瞰図風に描いたが、奥州街道は一本の線があるばかりだった。高橋至時から、もう少し考えろと言われていたらしい。
 
 伊豆、相模、房総は地形も変化に富んでいる。美しく地図を仕立てるサンプルを依頼したのではないか。伊能図の原形を決める構想が、銚子で忠敬と久保木の間で話し合われた公算が大きい。


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●忠敬の測った富士山の高さ
                   佐久間 達夫  季刊 伊能忠敬研究 第9号 (1996年秋季号)

 忠敬は、地図作成の資料を得るために、昼は海岸線と主な街道の距離と方位を測定し、夜は恒星の高度を観測して緯度を算出した。距離と方位の測定には、基点をきめ、測線の前方に梵天(梵天)を立て、二点間の距離と方位を測り、次々と繰り返してゆく方法即ち導線法を用いた。しかし、この方法では、測量を繰り返していくうちに誤差が生じてしまうので、遠望のできる山や岬、天守閣等を目印にし、交会法によ
る測量を行い、測定値の修正をした。
 伊能忠敬記念館には、このようにして測定した山や天守閣の方位が、「山島方位記67冊」に、教えきれない程記されている。しかし、山の高さは、地図作製に必要がなかったので、日本の最高峰富士山だけが記述されている。

○山島方位記 (富士山の高さ抜粋)
・西倉沢村(文化八年十二月三日測定)
 富士山の方位、子(ね)九分。直径八里九二。
 地高、六度五分。正切010658。
 直高、34町13間(一尺を30.303センチとして換算する。)
  3732.72メートル、
・箱根宿 二八町二四間 3098.18メートル、
・三島宿 二三町五二間 2603.63メートル、
・吉原宿 三三町三三間 3660.00メートル、

○測量日記
・文化二年五月二十日、志摩国国府村海岸に出て富士山の方位を測る。
 丑二五分五〇秒より丑二六分。
・文化八年十二月四日、駿河国須走村測所迄測る。止宿米山久太夫(家号大猿屋)。 
 
高村助太夫。此夜、富士山の高さも測る。

○仏国暦象編斥妄(せきもう)
 地形第三の一、西洋諸説の地体を論ず。「東海道の原駅、吉原駅にて、富士山の高さを測る」と、記してある。

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★伊能忠敬・伊能測量隊 県別よもやま話

 千葉県の巻 (物語風にアレンジしました)

 伊能忠敬は妻女との縁が良くなかった。共に暮らした三人の女性に次々に先立たれている。名主として活躍した天明の飢饉のさなか、家付きの妻ミチを病気で失う。そのあと、伊能家の番頭で、親戚でもあった柏木幸右衛門家の娘お妙(仮名・法名心蓮妙諦信女)と暮らし、2男、1女を儲けたが、お妙も産後の日だちが悪く没した。
 
  お妙のあとに、ふとした縁で知り合った仙台藩医4○○石の桑原隆朝の娘で、婚家から戻っていたお信と再婚した。お信とは気があって、五年間楽しく暮らしたが、お信も病気のため父の家で亡くなる。
 
 四人目に登場するお栄は、地味な忠敬の人生を彩る年若い才女だった。最近まで素性がわからなかったが、近年、資料が見つかっている。お栄と住み始めた時期は江戸出府1年後くらいと思われる。彼女は江戸の生れで、幼いとき両親を失い、縁を頼って佐原で養育された。成人後、久保木清淵の弟子として漢学の才を認められる。
 
 忠敬は出府後、佐原から下働きの女を探したが、久保木の推薦と、お栄の希望が一致して忠敬宅に住み込んだらしい。忠敬はその道も素早くて、手をつけて内妻とした。周辺から色々言われたと思われるが、五○代と二○代の二人は生活と仕事の馬が合って、師匠の高橋も「忠敬は幸せ者だ」とうらやむ仲だった。

 お栄と忠敬の会話を借りて、漫談風に、出生から佐原時代を語ってもらおう。
 
お栄「あなたと暮らしていますが、幼いころのことは聞いたことがありませんね」
忠敬「昔の話か。あまり思い出したくないことが多いが私の幼い頃の話は誤解が多い ようだ。この際、訂正しようか」

忠敬「私の生家は、九十九里浜中央のこぜき小関村の名主、小関五郎左衛門家だ。幼名を三冶郎という。当時この浜では盛大に「いわし漁」がおこなわれ、村にも大きな網主が数軒あった。小関家は網主ではなかったが、浜役人を勤めていた」

「六歳のとき姉家督の母が流行病で急死した。親戚寄合いでは、母の弟に跡を継がせることになり、婿だった41歳の父は、実家の神保家に戻されることになった」
「本来なら、14歳だった私の兄に家を継がせ、父が後見するのが筋だったろう。おそらく小関家には弟を分家させる力がなかったのではないかな」


(注)姉家督:九十九里には女子でも長子が婿を貰って家督を継ぐ風習があった。この場合、家督が死ぬと婿は返される仕来りだったという。


「父は、いくらかの縁切り金をもらって、六歳の私の教育を小関家に託し、姉と兄をつれて約15キロ北の小堤村(現在横芝町)の実家・神保家に戻った」「幼い私は話を聞いて号泣した」
「父も迷ったらしいが、幼い子をつれて帰っては生活の建て直しはできない」

「必ず迎えにくる。しっかり寺子屋に通って勉強しなさい」と約束して帰った。
「そのときの光景は、いまでも目に焼きついている。小堤村に帰った父は、漁業地・
九十九里浜との繋がりと、貰った資金をもとに、漁業資材の生産、供給を業とし二人の兄姉と働いて分家を立てた。

  屋号を「たな(店)」というから、財産分けではなく、自分の稼ぎで立てた分家だ。そして後妻をめとり、私が10歳になったとき迎えにきた」


お栄「その間、どんな風に暮らしていたの?」
忠敬「どうしてって。そりゃ寂しかったよ。跡を継いだ叔父は私に日課を課した。朝早く浜に出て、出漁する漁船の船名、乗り組んだ漁師の名前などを帳面につけることだった。村持ちの漁具を貸し出すこともあったが、それを記録し、しっかり返済してもらうのも仕事だった。これは浜役人の叔父の仕事だったが、私が“読み書き”を覚えるとすぐ私に言いつけた」

お栄「そんなことが子供にできるの」
忠敬「私は算盤や算術は得意だったから、仕事は何でもなかったが、漁師に馬鹿にされないようにするのが大変だった」
「そして朝飯を食べてから寺子屋だ。これは楽しかった。読み、書き、算術。なかでも算術は得意だった。」

お栄「ふーん。勉強は良くできたのね」
忠敬「当たり前だ。九十九里浜は実学の盛んなところで、網主の子供たちと競争して算術問答も大いにおこなった。」
お栄「それじゃ、さみしくなる時間なんか、無いじゃないの」
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★伊能忠敬の西洋科学知識
 私の興味の一つは、西洋の科学がどの程度、そしてどんな形で江戸時代に取り入れられていたのか、それがすばらしい伊能図にどう反映しているのかというようなことであった。だから小島一仁著『伊能忠敬』135、136ページに、伊能が手紙の中で
多禄某(プトレマイオス)
歌白尼(コペルニクス)
喝西尼(カツシーニ)
弟谷(チコ・ブラーエ)
刻白爾(ケプラー)
奈端(ニュートン)
の名前を引用していると書いてあるのを見て、大変興味深かった。
    
      小澤健一 伊能忠敬研究 第28 号 2002 年 より
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●伊藤忠敬との出会い
   小島 一仁 96年度 佐原例会の講演  季刊 伊能忠敬研究 第10号より
  日本文化を築いた十偉人
 ただいま、ご紹介をいただきました小島でございます。御来場の皆さま方は、伊能忠敬の生涯については、大体、ご存知のことと思いますので、本日は、私が忠敬に関心をもちはじめてから出会ったり、気づいたりしたことを、思い出すままにお話してみたいと思います。お気軽に聞いていただければ有り難いと存じます。
 私は、現在、この佐原の浄国寺という日蓮宗の手の住職をしておりますが、生まれたのは佐原ではありません。八王子です。八王子の小学校を出るとすぐに、旧東京市内の伯母の家にあずけられて、そこで中学・大学時代をすごしました。父は、大正の末年から佐原に住んで浄国寺の住職をしておりましたが、家庭の事情で、私はずっと父母と別れて暮らしていたのです。
 1942年(昭和17年)の九月に大学を出ました。卒業式というのは三月と相場がきまっていますが、戦時中だったため、半年くり上げられて、九月二六日が卒業式でした。そして、十月一日には軍隊に入りました。敗戦の翌年、1946年の8月に帰還しましたが、八王子の家も、東京青山の伯母の家も戦火で焼けてしまって行くところがありません。それで、しかたなく、父のいる佐原の寺へころがりこんできたのです。そのときから、私は佐原の住民になりました。
 戦地から帰還した次の年、1947年に、現在の教育制度、いわゆる六三制がはじまりました。このとき、私は、佐原の「新制中学」の教師となり、その翌年、「新制高校」の発足と同時に、佐原第一高校、現在の佐原高校に転任したのですが、伊能忠敬先生とのおつきあいは、そのときにはじまりました。
 佐原高校に着任してから間もなく、五月になると、講堂で、伊藤忠敬展覧会が開かれることになりました。これは、旧制中学校のころから、毎年五月に、慣例として行われていたらしいのですが、その準備のために、先日亡くなられた宮沢重義先生と二人で、忠敬旧宅へ行きました。小雨が降っていたので雨合羽を着て、荷車をひいて行きました。旧宅で象限儀や量程車などを借りて荷車に積み、ぬれないように上にシートをかけて、ガラガラと学校までひいてきました。今は文化財になっているのでとんでもない話ですが、当時はそんなことをしたものです。これが、忠敬先生と私の最初の出会いでした。続きはタイトルをクリック
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★伊能測量よもやま話
・忠敬の歩幅
・伊能隊へ出された食事の例
・忠敬の食事の好み
・忠敬と米相場
・測量の速さは一日に二里から三里
・宿舎では飲酒は厳禁
・岡山、赤穂で用意された測量応援の船団
・伊能忠敬隠宅の天体観測所
・伊能隊用宿舎の用意
・伊能隊では時刻をどう知ったか
・測量を支えた江戸の通信交通文化の成熟
・校歌にみられる「伊能忠敬」
など
具体的な内容はタイトルをクリック




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●伊能忠敬Q&A   二つの墓所
                                                               伊能 洋
  浅草、源空寺に伊能忠敬の墓があることは意外に知られていない。春秋の彼岸には兄と交替で墓参に行くと言うと、伊能家の墓所は千葉の佐原ではなかったかと不審な顔をされた。まさにその通りで佐原市の真言宗観福寺という古刹が菩提寺であり、忠敬の墓もチャンとある。ただし佐原の墓には遺髪遺爪が収められ、本墓は浄土宗源空寺という
のが正しい。
 なぜこうなったかというと、そもそもは忠敬の遺言から始まる。忠敬が天文、暦学を志し入門したのが幕府天文方高橋至時で、当時、三十一歳、忠敬よりも十九歳年下であったが、西洋暦法の教示と全国測量への道を開かれたという点で、忠敬の今日を決定づけた恩師となった。忠敬もまたこの年若い師を敬愛し、病弱であった至時が又化元年四十歳で没するや深く悲しみ、後年みずからの死に際しては源空寺の師の傍らに葬ることを遺言したのである。
 たまたま数年前、家にある古文書の中からその時の寺の送り状を発見したが、当時は菩提寺の変更は大ごとで、宗派寺格の異なる寺の間でしかも檀家総代を務めた家となれば大変なことだったようだ。大枚の供養料も納めたようである。本人は至極満足して先生とつきぬ話をしているのだろうが、それにしても並々ではない師弟の結びつきがうかがえる。現代では信じられないことであるが、一面うらやましい思いがある。
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・芳名録「後藤新平」
               伊能 洋
 後藤新平が東京市長時代に、忠敬旧宅を見学に訪れた。その際、五代目にあたる祖母、孝が応対したが、後藤氏がまことに熱心に見学されたので、お見せした江川太郎左衛門と忠敬との往復書簡のうちの一通を記念にと、秘書を通して進呈した。
 数日後、後藤新平から鄭重な礼状と共に、江川の手紙が同封してあった。礼状に日く、江川と忠敬の往復文書は、後藤新平個人の私すべきものではない。日本民族の至宝である。他の遺品と共に散逸せざるよう、伊能家で大切に保持して欲しい云々 と。

 李白の詩
                 懐古欽英風
                          新平

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・忠敬に贈られた漢詩
  伊能氏見訪別後賦此贈之

 寂莫柴門掛薜蘿 喜君今夕此相過

 九江魚網我家事 休唱憑驩長鋏歌
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忠 敬 を 詠 む
        伊能 洋  研究会報36号
 俳句誌やカレンダーなどで、たまたま忠敬をテーマにした作品に目が止まった。そのいくつかをご紹介したい。そして他にも知らない作品が多く有るのではないかと思うので、ぜひ皆さまのご教示をお願いしたい。
 母、多嘉子(俳号三木つゆ子)の句集にも十句余りの関聯句があり、拙句もいつの間にか二十に及ぶ数になった。佳句とは言い難いが記録の一つとしてお目に掛ける。
 忠敬は狂歌をたしなみ、その何首かが残されているが決して上手な歌詠みではなかったようだ。
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人望の厚かった忠敬
    佐久間 達夫   研究会報37号
 伊能忠敬が、伊能家の十代目当主として家業や村政に励んでいた頃の佐原は、利根川水運の中継地として栄え、当時「小江戸」と呼ぼれるほど賑わいを見せていた。
なかでも伊能三郎右衛門忠敬家は、酒造、米穀の売寛、金貸し、川船運送などによって財産を蓄積し、佐原では、永沢治郎右衛門家とともに資産家であった。
 そこで、伊能家がどのような交捺をしていたかを知るために、忠敬が関西方面へ旅行したときに記した「伊勢参宮留守見舞覚帳」、忠敬の長男・景敬と三女琴の「七つ祝祝儀帳」、忠敬の妻・達の「葬式控」と「新盆見舞控帳」の内容について記してみよう。
(詳細はPDF)

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忠敬は長寿だったか?
     石 川 清     研究会報第30号
 人生50年と云われる高齢化時代をむかえ近午、如何に生きるべきかについての本が花盛りである。最近も日野原重明聖路加国際病院理事長著「人生百午私の工夫」、石原慎太郎東京都知事の「老いてこそ人生」が出て反響を呼んでいる。一読し、各著者の示唆に富んだ含蓄のあるお話に共感を覚えるところも多かった。
 人生50年と云われた江戸時代に、伊能忠敬は前半生は商家の家業に精励し、後半生の50才からは第二の人生を志し本格的に学び、55歳から全国の測量を開始し、以後17年間かけて我国初めての実測による高精度の日本地図を完成した。人生を二度生きた男とも云われ
高齢化時代の中高年の星である。
 私の住んでいる九州には64歳からの二度に亘る測量行で、いずれも江戸から途中測量しながら二〜四ケ月かけて小倉まで来て、そこから長期間かかる測量に入り、屋久島、対馬、五島等困難な遠方の島々まで行った。この時70歳。驚くべきパワーである。現代なら東京から小倉まで新幹線で五時間弱。飛行機なら一時間半ちょっとでこれる。当時は足で歩いて来、測る、わけです。あらためて昔の人は丈夫だったとつくづく思う。
 測量の旅は丁度現代のビジネスマンの単身赴任か出張生活に似ている。しかも宿泊地が毎日変わり(時には連泊もあるが)日々のデスクワーク(これも大変な作業)だけでなく少々の風雨でも屋外の作業や、夜の天測もする肉体労働であり、このような苛酷な生活を長期間、しかも60歳を越えた高令期に入って続けたこのことに吃驚し、感動させられる。もしかしたら江戸時代は私たちが考える以上に伊能忠敬以上の元気な70才、80才の長寿の方が多かったのだろうか。忠敬は本当に長寿だったのか。

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・能登半島に吹いた忠敬の風
 
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・太鼓谷稲荷神社伊能図探訪
 
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・未完の天文暦学者 伊能忠誨
 
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「榎本武揚文書」解読余話
 
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シーボルトの地図は何処?
 
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星座を見た人々
  宮沢賢治と伊井忠敬
                                       芳賀 啓   研究会報第21号

 1933(昭和8)年9月、急性肺炎で三七歳の生涯を閉じた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、彼の作品の中でも今日最も評価され、様々のアニメーションなどに翻案され、また英語やフランス語に翻訳されて海外でも親しまれている代表的な作品といえよう。しかし作者の自負心にもかかわらず、数多くの詩や散文のなかで、生前に図書として刊行されたのは「春と修羅」および「注文の多い料理店」のふたつにすぎず、これらとて実態は自費出版で、その生涯で唯一の原稿料は「愛国婦人」に一部を発表した「雪渡り」で得たものであった。
「銀河鉄道の夜」は、主人公ジョバンニの(多分まだ暑さの残った初秋の)夜一刻の夢とその前後の、きわめて短い時間のできごとと設定されており、また物語の領域も、いずことも知れない小さな町の、数地点を舞台としているにすぎない。すなわち、@「銀河」の授業があった教場、Aアルバイト先の活版所、B病気の母親の寝ている町外れの家、C郊外の牛乳屋、そしてD町の灯火を見下ろす丘、最後にE力ムパネルラの行方不明となった川である。
 物語の塑型は、「往きて還りし者」あるいは「ふたつの世界を行き来する者」にほかならないのだが、では、その「世界」とは何であったろうか。文庫本にして76頁ほどのこの小作品のなかで、カートグラフィックターム(地図学用語)が数多く用いられ、きわめて重要な働きをなしていることはあまり知られていない。もっとも頻繁に登場するのは「三角標」であるが、次に「地図」そして「測量旗」さらに「三角点」も指摘できるだろう。
 このうち「地図」というのは、実は星図のことで、物語の前半部分すなわち主人公ジョバンニが「銀河軽便鉄道」に搭乗する以前は、「星座の図」や「星図」あるいは「星座早見」もしくは「図」ということばで示されている。「星座を旅する」というのは、この作者の通奏モチーフであって、有名な「星めぐりの歌」は、これより初期の作品「双子の星」に登場し、そのなかの星の逸話は「銀河鉄道」のなかでも繰りかえして言及される。星を旅する者の立場からは、「地図」と「星図」とは、「地球」と「天球」のように互いに照応し、転換しあえる行路案内図に他ならない。
さて、問題は、頻出する「三角標」である。

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文化の開拓者 伊能忠敬
     宮内 敏  研究会報44号
 
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・忠敬と刀
 

忠敬周辺の人々
              加藤 時男     研究会報22号
 伊能忠敬の実父が千葉県山武郡横芝町小堤の神保貞恒であることはよく知られている。貞恒は神保家から同じ山武郡九十九里町小関の小関五郎左衛門の娘みねと結婚し、小関家に婿入りしている。そこで三治郎、のちの忠敬が生まれるわけであるが、母親みねが早逝したため、父貞恒は小堤の実家に寄留し、のちに分家する。残された忠敬も一時期小堤に寄留しており、何かと神保家との由縁も深い。
 そもそも神保家は、戦国末期、小田原北条氏配下の武将坂田城主井田氏の宿老として勢力のあった中世以来の豪族であった。しかし天正18年(1590)北条氏滅亡後、井田氏は常陸に逃れ、神保氏はこの地に土着、帰農している。このよぅな神保誠家には多くの古文書も所蔵されており、そのうちの「井田氏関係文書」「小堤村明細帳」などは「千葉県史料諸家文書 中世編」(昭和37年 千葉県史編纂室発行)「千葉県史料諸家文書 近世編 上総国 上」(昭和36年千葉県史編纂室発行)に収録されている。
 私は昭和60年代に地元の高校で教鞭を執っていた時期、その高校に神保家の子息が在籍しており、そのクラスの歴史の授業を私が担当することになった。そのことを契機に神保家文書を披見する機会をもった私は、同僚と共に昭和64年1月、はじめて神保家を訪問し、神保家文書を拝見した。
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忠敬長女 お稲さんを介した忠敬の血筋に関する新事実


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伊能忠敬と八王子千人同心
     加藤 巷児   研究会報25号

戦国大名武田信玄(1521〜73)は、軍政・民政を統率して、中央集権的な体制を確立するため、人材の登用をはかるとともに、家臣団の編成とその強化に努めている。その構成は次のように分類される。
 @ 親類衆
 A御譜代家老衆
 B足軽大将衆
 C旗本・諸役人
 D地域的武士団(辺境武士団)
 E占領地域武士団
 F海賊衆

 この、C旗本・諸役人のなかの小人頭=中間頭が千人頭の前身といわれる。小人頭は九人が各三十人の小人,寄子を預かり信玄居館の番家で、一夜交代で番役を勤め、さらに領国の主要な道の警備に当たる筋奉行を命じられたのが始まりといわれている。
 1582年(天正10年)甲斐武田氏は織田信長,徳川家康の連合軍に滅ぼされたが、家康は、甲斐・信濃の支配にあたり、できるだけ武田旧臣を抜擢・登用し旧所領を安堵し徳川家臣団に組み入れた。
 家康は、小人頭にたいして甲州口の警備と治安維持を主目的とし、合わせて江戸防衛、日光東照宮の警備等を使命とする、農兵末分離による軍事的機能の継承と位置付けたものと考えられる。小人頭は「甲州御小人頭」と呼ばれ、「十人頭衆」となっている。(1590)
 後、当時の蝦夷に派遣された原半左衛門胤敦の祖である原半左衛門・胤従もその一人である。寛政11年3月(1799)原半左衛門胤敦は幕府に、蝦夷地に渡ってロシアの千島・カラフト・蝦夷地への進出に対抗して、警備と開拓に当たりたい旨願い出た。
 願いは寛政12年正月に許可される。同3月20日に原半左衛門胤敦の弟新介が43人、翌21日には、原半左衛門胤敦が57人をそれぞれ引き連れて蝦夷地に向かった。原新介はユウブツ(苫小牧市勇払)に、原半左衛門胤敦はトマリ(白糠町泊)にそれぞれ会所を設け、任務に就く。出発の時期からみて現地への到着は寛政12年(1800)4月末くらいだったろう。
 一方、伊能忠敬は、第一次蝦夷地測量に江戸深川を出立したのが寛政十二年閏四月十九日。三厩で風待ちに九日を費やし、それでも箱館に着けずに吉岡(福島町)に上陸したのが五月十九日である。
 忠敬隊は福島・喜古内・箱館・大野村・鷲ノ木村(森町)・山越内(八雲町)・長万部・礼文華(豊浦村)・虻田・室蘭・幌別・白老を経て、勇払に到着したのが6月21日(旧暦)で、白糠(白糠町)に到着したのは7月22日である。
 帰路は西別(別海町)・クスリ(釧路)を経て白糠に戻ったのが8月15日、広尾(広尾町)・様似(様似町)などを経て勇払に着いたのが8月29日であった。
 私事であるが、仕事の関係で苫小牧に10年以上も滞在していたことがあるので、勇払の町はずれにあった八王子千人同心の、一部の方々のお墓を見に行ったことがある。はからずも、苫小牧市では、・今年が八王子千人同心の、勇払着任二百午ということで、各種の催しがあったという。
 忠敬の測量開始二百年、しかも同時期に勇払に宿泊しているので、何らかの接点を求めて、測量日記と八王子千人同心の資料を当たってみた。

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伊能家の先祖書 「家牒
     小島 一仁
この稿では、記述の都口上、人名の敬称は、過去現在を問わず、すべて省略させていただいた。
伊能家の先祖書「家牒」は、伊能三郎右衛門家の初代景久から一五代目康之助までの代々の事績を中心として記した先祖書で、墨付紙約80枚ほどの記録である。
歴代当主の名は、次のように記されている。
・中興元祖伊能責岐守景久・
・目責岐景常(以下伊能の姓は省略)
・三代目勘解由景満,
・四代目三郎右衛門景善・
・五代目三郎右衛門景知・
・六代目三郎右衛門景利・
・七代目三郎右衛門昌雄・
・八代目三郎右衛門景慶・
・九代目三郎右衛門長由・
・十代目三郎右衛門忠敬・
・十一代目三郎右衛門景敬・
・十二代目三郎右衛門忠謁・
・十三代目三郎右衛門景文・
・十四代目三郎右衛門景徳・
・十五代目康之助。

 これによって、佐原伊能本家の主人が、代々三郎右衛門という通称を用いるようになったのは、四代目景善のときからであったことがわかる。

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・来訪者・訪問先
     佐久間 達夫   研究会報 第29号




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・新しいことを知る喜び
    佐久間達夫   研究会報 第31号

 去年(平成十四年)の十二月一日、佐原市内のF小学校の四年以上の児童と、その両親を対象に「伊能忠敬測量と日本地図作成の動機」といぅテーマで講演した。
 講演内容をより確かなものにするために、拙著「伊能忠敬の測量日記」と、「伊能忠謁日記」を再読した。その時、日記を解読した当時のことが蘇り、しばしの間、思い出に耽った。

 毎朝タの勤務時間外に伊能忠敬記念館で、「日記」の一頁一頁を写真撮影し、それを写真館で現像焼付していただき、夜遅くまで「古文書辞典」と首っ引きで解読した毎日。タイプライターで、一字一字を印字した三年間。今では懐しい思い出として残っている。
 「日記」に記してあった地名や人名を確認するために、休館日を利用して九十九里町や、東金市、多古町、光町、旭市、銚子市、千葉市、大栄町、干潟町、潮来市、竜ケ崎市、伊奈町、川崎市、東京都など、一度ならず二度三度足を運んだ。又、全国各地の関係者へ手紙や電話で問い合わせもした。今考えると、「よくも失礼とも考えずに、こんなに歩いたり、書いたりしたものだなあ」と思う。
 東京都港区高輪の「東海道大木戸跡」の石垣を眺め、「ここが忠敬の東海道、西国測量の基点であったのか」と、当時の測量の旅を推察したあの日。
 多古町南中の平山藤右衛門家の墓地で、忠敬・ミチ夫妻と、盛右衛門・イネ夫妻の墓石を発見し、平山氏が、妹「タミ」や姪「ミチ」の親元として、嫁ぎ先への心遣いに感動したあの日,
 忠敬の長男・景敬の継妻リテの生家、東金市宿の小川新兵衛家を訪問し、当主夫妻に、仏壇の中に大切に保管されていた歴代の遺牌を見せていただき、その後、小川家の墓地に行き、リテの母親「武津」の墓碑で、「婦人名武津。吉野氏。一之宮吉野源七姉。省義後妻"生一女二男。長子佐原嫁伊能氏」という刻字を発見したときの喜び。その日は、北風の吹いていた寒い日であったが、私の心は、春のように温かった。
 忠敬の少青年時代に学んだ学問の内容を、「はい、そうであります」と、明治人の口調で話してくださり、その後、九十才といぅ高齢にもかかわらず「日吉台」という高台にあった陸軍参謀本部陸地測量部が設置した「三等三角点」を案内してくれた忠敬の父の生家の分家、五
右衛門家の十二代当主・神保光一氏の律儀な人柄に接したあの日。
 平成元年三月、忠敬の家族で、末知の点の多い二番目の妻と、その子孫のことを聞きに、川崎市二子に住んでいる忠敬の二男敬慎(幼名秀蔵、後、神保玄次郎儀卿と改名)の子孫宅を訪れた。 

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もう一つの伊能図
 
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・もう一つの伊能図は役だっていた
 
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・伊能測量隊 長崎に来る
 
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佐原邑河岸一件
        小島 一仁

「佐原邑河岸一件」は、安永三年(1774)、忠敬が二九歳のときに自らまとめたものであり、おそらく、忠敬がつくった最初の記録であろうと思われる。一冊で、墨付紙83枚、400字原稿用紙に直すと70枚ほどの記録である。
その本文の文字は、忠敬ではなく別人の筆になるものであるが、表題の「佐原邑河岸一件」と末尾に記されている「明和九年辰二月同七月両度河岸一件、安永三年極月相究、伊能三郎右衛門忠敬」の文字は、忠敬自身が記したものである。また、この記録については「佐原村川岸運送相究候一件」と題する下書も残されているが、これは全文を忠敬が書き記したものである。従って、この記録を忠敬がまとめたということについては、疑いをさしはさむ余地はない。

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・二つの家訓
 
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