伊能忠敬e史料館
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測量日記原文DVDを読み解く

  国宝・伊能忠敬測量日記原文のDVDをさる九月に出版した。17年にわたる測量の日々は、測量日記3000頁に淡々と記されている。大きな需要があるとは思わなかったが出足は順調である。購入者の80%は個人で全国的である。
 
 写真のように、古文書としては、丁寧で読みやすい文書である。少し勉強すれば十分読み下すことができるので、忠敬研究に必須であるとともに、郷土史調査の史料あるいは古文書入門としても適当であろう。身近な地名・字名・人名が沢山出てくるから、興味は尽きない。
 
 記述の基本形は、日付、出発時刻、天候、測量地名、送迎・挨拶の人名、宿舎など であるが、場所によっては注目に値する記事もある。以下順次注目記事を紹介する。      編著者 渡辺一郎


13.旧々碓氷峠を測る

 第3次測量の享和2年の項に記録があって、伊能隊は出羽、越後の海岸を測ったあと、長野の善光寺を参詣、旧々碓氷峠を測って上州(群馬側)に出た。そのときの状況を国会大図と比べながら眺めてみよう。
(PDF参照)
12.一日の歩測44キロの強行軍(栃木県)

 第一次測量日記の宇都宮の項に
「閏四月二十一日 朝曇天、四ツ頃より少晴、九ツ半頃より又曇る。八ツ半小雨、夜は大雨。古河宿を朝五ツ前出立。二十五町野木宿、一里二十七町間々田宿、一里二十四町小山宿、一里十一町新田宿二十九町小金井宿、一里十八町石橋宿、一里半五町雀宮宿、二里一町宇都宮城下、暮六ツ前に着。宿成田屋吉右衛門。」
とある。単純すぎて面白くないな、と感じるのだが、数字を眺めていると、気がつくことがある。

先ず、宿駅の間隔が短いことである。ここに出てくる8区間の平均が一里十五町だ。東海道の品川から京都三条大橋までの五十四区間の平均は二里十二町だから、ここより長い。奥州街道全部にこれほど宿駅が整備されていたとは思わないが、かなりの交通量があったようだ。あるいは、関東平野が拓けていたということであろうか。

次に、一日の測量距離である。合計すると十一里十四町となる。キロに直すと44.427キロメートルである。歩測しながら何時間で歩いたのであろうか。

閏4月21日は陽暦に直すと6月13日。1800年と2012年では昼夜の時間は違うと思うが、概略のところとして現在の暦でみると、宇都宮の日の出は4時22分、日没18時59分となっている。
到着の暮六つは日没だから、19時、朝五つ前は何時か。昼は日没から日の出を引いて14時間37分。6等分して1刻の時間は146分。日の出の4時22分を六つ時とすると五つ時は7時48分、五つ前を7時半としよう。

そうすると、1日の作業時間は11.5時間となる。昼食と小憩に1時間を除いて10.5時間である。1時間の測量距離は4.26キロとなる。歩測で歩けない距離ではないから、歩測係はいいだろう。梵天係はいつも走って位置に付いたに違いない、方位係は測定次第、次の梵天まで小走りだったのではないか。

そう役回りを推測すると、梵天は秀蔵と宗平、方位は門倉、歩測は忠敬ということだったのではないか。これで手一杯だったろう。とにかく北海道まで3,200キロを往復するのに、6月11日出発は遅すぎた。隊員一同北海道が寒くならないうちにと頑張ったらしい。(京都までの東海道は500キロだった)


11.会津から裏磐梯の桧原を越えて米沢へ(山形県)

                             注( )は割注部分
 出羽、越後を測った第三次測量は、享和2年(1802)6月11日(陽暦7月10日)江戸を発って、6月29日には会津の塩川宿に着く。翌1日は大風雨だった。
    (続きは、タイトルのクリックで
10.能代における日食観測の現場風景(第3次測量、秋田県)
(詳細はpdfをクリック)
 能代では日食の観測が予定されていた。日食は何のために測ったのかといえば、経度の差を観測するためであった。伊能隊の出先と、江戸の天文方、関西の間重富の観測班が日食を同時観測して、食の始まり、食が一番激しいとき、食の終了時刻などを測り、それらの時刻差から経度の差を知ろうとした。
 ここで問題は、いまのように何処に持っていっても、正確な時刻を示す時計がないことだった。考えられるのはゼンマイ時計しかなかったが、当時それが日本には無かった。(外国ではクロノメータ=経線儀と称して、正確なゼンマイ時計が使われていた)
 対策として、考えられたのが推揺球儀という正確な振り子時計である。これを測量先へ持参し、前日の太陽南中時を基準に振り子のカウント数で、食の開始、終了時刻を表現しようとした。これを江戸と関西でも同時におこなって較べよう、という気が遠くなるような話だった。
その作業の現場風景が淡々と記されている。

9.第二次測量往路、青森の六ヶ所村で吹雪に難渋する (青森県)

享和元年10月第二次測量の途中、六ヶ所村ではひどい目にあっている。清書本測量日記と伊能忠敬先生日記により実景を復元してみよう。

享和元年十月十二日 朝は晴、六ツ半頃、現在八戸市になっている市川村を出立。ここまでは三ノ戸郡だったが、ここからは北郡である。次の宿舎の浜三沢村(三沢市の東部にあった集落、以前は役場もここにあったが、三沢基地の騒音のため、施設はすべて移転してしまった)までは3里で、この間、すべて海辺で家も船もない。白砂の渚が続くばかりだった。

西側の岡の上には岡三沢という集落があり、旗本巡見使も通る街道があったが、浜からは見えない。宿泊地の浜三沢の村も海からは離れていて海浜からはみえなかった。昼ごろ、宿舎の嘉茂助宅に着く。 

明日の宿泊地の平沼村までは6里半もあって遠いので、宗平、秀蔵、慶助らに途中迄測らせる。慶助が疲れてダウンしてしまった。

宵迄は晴れていたので、天測を初め、二三星測ったが、その後大曇になり、遂に雪が降出し、夜明けまで続いて三四寸積もった。

十月十三日 雪が止んで、六ツ半頃浜三沢村を出立する。しかし、すぐに雪が降出し、強い風が山々から吹下し、大吹雪と成って雪と砂を吹散し、先が少しも見えないほどだった。歩けないので、長持を楯とし皆でうずくまって、大吹雪大風をしのぎ、少し収まった合間合間に進むようにした。

駕籠の蓋は海に飛んでいってしまい、戸障子も飛んでいったのをようやく拾う始末だった。こんな訳で駕籠の中も雪が積もって外と同じ。そして終夜、大風雪だった。 平沼村(現六ヶ所村)泊。
 
 この日は全く測量どころではなかった。翌日未測部分を測る。この辺は第二次測量では最も難航の地だった。人家は浜三沢村十八軒、岡三沢村十九軒、平沼村二十軒で、村々といっても小さかった。

この小さな村々から伊能隊の案内人(2人)、長持ちの人足(4人)駕籠人足(2人)、馬(1人)、荷物運び人足2人、と少なくとも11人を差し出すのは大変だった。人足にはお定めの賃金を払っているが、村にとっては総力戦だったろう。幕府勘定奉行の先触れと藩主からの指示がなければ難しかったと思われる。

駕籠は忠敬の乗用であるが、病人が出た場合は救急車として、次の宿舎に患者を輸送する役割もあった。駕籠に乗ることのない内弟子だけの支隊でも駕籠は用意されたし、所により空の駕籠を従えた場合もある。緊急対応が考えられており、忠敬は医薬の知識もあって医薬も持参していた。

8.蝦夷地測量はニシベツから引き返す
(詳細はpdfをクリック)
 寛政12年8月3日 姉別で忠敬は手紙で頼んだ根室からの迎船を待っている。4日も船は来なかった。5日もだめ。いらいらしながら待っていた。 
同六日 朝より晴天。年中太陽を測。七ツ頃ネモロの御詰合ニシベツへ御出役に付、ニシベツより迎船来候に付諸器仕舞候え共遅迎に付逗留。夜は少曇る。

7.襟裳岬で難渋、「地獄に仏」と弱音をはく
(詳細はpdfをクリック)
 寛政十二年七月二日 伊能隊は日高本線の終点様似から「えりも(襟裳)」に向かう。陽暦では八月二一日の晩夏だった。

 同二日 薄曇、夜も同じ。朝五ツ頃砂馬仁出立。海岸砂小石交り、又は大石を積に似たる道にて行路難し。又海岸に高くそびえたる大岩を上下する所あり、甚危し。又、汐間を見て走る所あり。

6.函館役所で煩雑な手続き、間宮林蔵との出会い(北海道)
 (詳細はpdfをクリック)
六月朔日 朝六ッ後出立。此日朝より七ツ後迄晴天、夜四ツ後より雨、夜半より大雨。四里四町、(四里四町四十間と有)内浦ダケの梺、スクノツペという山の間に休所一家あり。 此前に大沼、小沼あり。それより四里、(合八里半という。)鷲の木村に七ツ半頃に着。止宿。大野村より少し先に一の渡り有り。村上嶋之丞殿在宅に付見舞。

 

5.津軽の先端三厩を3度測る
(本文は下記の測量日記の画像をクリックして下さい)
 


4.忠敬の生前に建てられた記念碑の立つ唐丹(とうに)
(続きはPDFを参照してください)
 
 大災害を受けた地域の測量模様を続ける。
享和元年九月二十二日 朝より曇る。六ツ後出立。宗平、慶助は昨日の残を測り、直に越喜来を測。余と郡蔵、秀蔵は唐船看所にて所々測る。越喜来(おきらい)村、浜々おおし。七ッ後に着。止宿肝入善左衛門。此夜雲中測る。」
越喜来は深い入江の最奥だ。三陸町の綾理(りょうり)から、陸路を越喜来(おきらい)に測ってい
る。忠敬と郡蔵、秀蔵は唐船看所で方位を測ったという。唐船看所(とうせんかんしょ)の意味は分からない。事典にも出てこない。方位を測ったのだから見通しはいいのだろう。唐船がこんな所まで、漂着するとも考え難いが、地元の方に御教示いただければ有難い。雲中測る、は雲の間に星を探して測ることである。


3.仙台領の松島海岸(日本三景)で海中引き縄
 
同(享和元年八月)二十一日、朝曇る。六つ半前蒲生村出立。湊浜、松が浜、それより菖蒲田浜、花淵、吉田浜、代が崎浜、東宮院に至る。是より我等は舟にて塩釜へ海上を見る。宗平、秀蔵、慶助は、此の所より海辺を東宮浜を測る。海辺、山越不宜に付、舟にて引き縄を以、測量を成、仙台領海中間数、引縄の初めなり。吾等と郡蔵は塩釜村へ七つ前に着。直ちに塩釜明神道路方位を測る。三人の者、夜に入りて着、止宿甚助。此夜曇天不測量。此所より南部領宮古迄先触れを出す
同二十二日、朝より曇る。朝六つ半後塩釜村出立。不残乗船、外に舟二艘を用いて方位を測る。海上長引縄を以、舟続に測、海上至て静なれども尺取らず。七つ頃塩釜松島の堺、都島に至る。それより松島地を測る。松島役人迎船と共に来る。測量残る。七つ後松島に着。宿棟右衛門

 東日本大震災の被災地域の七ケ浜町から塩釜、松島への測量では、海中引き縄が大幅に取り入れられていた。仙台藩領に対しては幕府勘定奉行から代官経由で、伊能隊がゆくから、お定めの安い賃金の人足提供と案内人を出せ、船手配も、という先触れが出されたが、これに加え、若年寄立花出雲守から江戸の藩邸にも通達され、現地では家老片倉小十郎から領内の向々へ指示がされていた。南部領では海上引き縄は行われていないから、幕府の丁寧な通達が影響したとも考えられる。
 
 伊能大図をみると、七ケ浜の周囲は海岸を測り、東院浜から引き縄が始まる。翌日の記事を見ると、測量船は二隻で、初日、忠敬・郡蔵は地形を写生しながら塩釜へ先行したことがわかる。海中引縄の具体的な方法は日記ではわからないが、舟二隻では難しいと思う。

 理論上は、発着二つの陸上の目標を決め、2点を結ぶ直線上で、AB二隻で順次縄を張ってゆけばいいのだが、実際的にはなかなか大変だ。最初は、起点に船Aを置き縄端を保持させ、船Bに縄を落としながら目標と結ぶ直線上を縄引をさせればよく、Aから目標を結ぶ線上をBが進めるよう合図するだけでよい。縄が終わったら、Bを固定点として縄を保持し、Aは縄を巻き上げながら進む。全部上げたら、縄端をBに渡して、Aが縄を落としながら目標に向かって進む。進路はBから目標を結ぶ直線に入っていればよい。これを繰り返せば、測量は可能な筈である。

 しかし実験してみると、そう簡単ではない。縄には浮を付けたと思うけど、巻き上げるのは結構大変だ。海の中で船の位置を固定するのはさらに大変である。まさか、碇や竿を使ったとも思えない。遠山の方位を複数観測しながら位置をキープしていたとも思えない。なんとなく船頭の感に頼ったのではないだろうか。

 二十二日、波静かだがはかどらない。松島村の船が迎えにきたが、予定が終わらなかったという気持ちがわかる気がする。このあと、仙台領では海岸の海中引き縄が多くおこなわれているから、技術は向上したと思われる。

 遥か後年の対馬の測量では、海中引き縄の地元史料が残っていて、先縄船、後縄船、中取船、羅針船、札船など数隻で引き縄船団が構成されているが、この辺ではとてもそうはいかないで、隊員の技量でカバーされていたと思う。


2.茨城県の巻
享和元年(1801)8月3日 長久保赤水の出身地常陸の赤浜村を測進する。
同 三日、朝より曇天。助川村、岩城街道の駅場なり。宮田村、滑川村、田尻村、小木津村、折笠村、川尻村、伊志浜村、伊志町村、安良川村、高萩村、両村とも駅場なり。
半月宛勤めるよし。高戸村、赤浜村、長赤水の出し村なり。小野矢指村、足洗村、駅場なり。七つ半に着。海辺測量のもの共は五つ頃に着。此日午後より雨
。」
(赤水図へのリンク)
 助川村は現在の日立市。長赤水は「改正日本輿地路程全図」通称赤水図の著者長久保赤水のことである。赤水は水戸藩の儒者で藩主の侍講を勤めた。忠敬より28年早い1717年に赤浜村に出生、忠敬が測量をはじめる20年前にこの地図を上梓した。
 
 実測せず、世間に流布している地理情報を収集して制作された。経緯線を初めて記入した日本図という。実測していないという意味で伊能図の対極にある地図である。縮尺は小図の約三分の一だが、空白部がなく便利なので、江戸時代に大量に出版され流布した。
 
 江戸期は赤水図が中心であり、明治期になると地図の基本は伊能図に代わるが、忠敬が赤浜村を測ったのは赤水の死没した七月二三日の10日後だった。運命の選手交代というべきかも知れない。
 
 岩城街道は、陸前浜街道といい、水戸から岩沼で奥州街道に合流するまでの街道で今でもそう呼ばれている。ここは測量が容易な地形だったらしく、前泊の会瀬から足洗村までは約25キロあるが、一日で測っている。八月三日は西暦の9月10日にあたるので、六つ後というのは六時過ぎとなる。それから五つ(七時半ころになる)まで、作業時間は昼食を含んで13時間になる。

 歩くだけでも大変なところを、縄を張り、方位を取りながら25キロの測量は大仕事だ。午後より雨というから、よくやったと思う。隊員は頑張っていた。
 
 記述からは、忠敬は別行動で先行し、段取りをつけていたようだ。作業マニュアルの検証が済んで、仕事は平山郡蔵以下の隊員にまかせていたらしい。
 宿駅は伊能大図を見ると赤丸がついているが、安良川村、高萩村は二つ並んで赤丸である。宿駅を半月交代で務めたというのは、負担軽減の生活の知恵だろうか。

1.千葉県の巻(銚子市犬若)
 享和元年七月二六日、銚子滞在九日目に、
同二十六日、晴天。此早朝、日出に犬若岬において慶助、富士山を測。着後十九日より富士山の方位を測らんと日々手分けし、高きに昇り遠へ出しけれど、日々蒙気おおくして見えざりき、此朝富士山を測得たり。そのよろこび知るべし。予が病気も最早全快に及べり。此日奥州小名浜迄先触出す。」とある。

 房総半島の測量に伊能隊は37泊を費やしたが、連泊したのは洲崎の4泊と銚子の9泊だけで、その理由がこの文章に出ている。
第二次測量では品川から三浦半島、相模湾、伊豆半島を一周して東海道を通って一度江戸にもどり、次に、房総半島を一周して銚子まで来ていた。第一次測量の反省から新しい作業要領を定め、間縄を張り、近傍、遠方の目標物を利用した方位測量を加えたりしてデータ確認を徹底していった。そこで地図上に描かれたこれら複雑な地形の測量精度を確認するため、銚子から富士山を遠望したかったらしい。結果は満足できる誤差たったようで、喜色が文面にあふれている。

  犬若岬の観測地点は伊能大図を参考に推定できる。地元の方の意見では、伊能隊が観測した時期(9月上旬)にはなかなか富士は見通せないという。犬若という地名は今もあるが、犬若岬とは呼ばれていない。また、伊能隊が測量術に自信を持つことになった因縁の場所とも知られていない。
犬若の岩礁
伊能大図58号部分

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